スピリチュアルケア〜祈りと希望 を聴きにいく

四谷の上智大学に行き、「スピリチュアルケア〜祈りと希望」という講演を聴きに行く。

講師は、ノートルダム清心女子大学准教授の崎川修さん。哲学やキリスト教倫理学を専攻しているとのこと。

自分が思うに、哲学の本義とは、人間や社会(さらに言えば地球や宇宙)の現状の理解と、あるべき姿の考察である。大幅に端折っていうと、哲学的思考の終着点は、結局は人間の幸福論に行きつくのだ。

人間の幸福とは何か。人間はどういう状態になれば「幸福だ」と心からいえるのか。一見、途轍もなく深遠な問いかけのようでもあるが、実は簡単な話で、答えは「よい人間関係」に囲まれたとき、人間は幸福になれる。

よい人間関係とは、大量の友達を持っていたり、大量の異性と付き合っていたり、大量の親戚を持っていたり、大量の社会的賞賛を浴びること・・・ではない。少数でもいい、自分の存在に敬意を払ってくれる他者が存していることであり、ようするに重要なのは量より「質」である。(ただし、量の多さは質の高さを担保することはある)

こういった「よい人間関係」に恵まれている状態を、崎川さんは「身体と感覚が受け止められ、調律される場所」にいること、と表現している。ここでいう「場」とは、「現在のままの自分を受けとめてもらえて、安心して自分自身でいられる」空間や時間という意味であろう。俗耳に入りやすい人生の目的である、「金銭的富裕」も「政治的権力」も「社会的立身出世」も、こういう「場」を得るための「手段」に過ぎない。

この手段と目的の関係を見失い、手段を目的化したり、目的を手段化したりするところから、人生の歯車が狂ってくる。一般論だが、人生の歯車は一度狂うとリカバリーするのは容易ではない。場合によっては、取り返しがつかないこともある。苦しみ、苦しみ、苦しみぬいて、苦しんだまま死んでいった、沢山の人たちがおそらくいた。本来、苦しみはプロセスであれば十分で、それが結末になるべきではない。

崎川さんは、人間関係を「関わり(relation)」と「交わり(communication)」に分けて考える。両者の大きな違いは、「関わり」が片務的(与える側と受け取る側の関係)でゼロサム(収奪する側とされる側)であるのに対し、「交わり」は双務的(双方になし得ることを交換し合う)で、ウイン・ウイン(双方に利益がある)の関係を指向しているところだ。

このあたりの概念を、別のことばの対比で表現したのが、cure(キュア)と、care(ケア)との違いである。キュアとは神から人間への「恩寵」や、医師から患者への「治療」行為など、垂直(上下)関係における一方的な提供と享受のであるのに対し、ケアとは友情や愛情など、水平(対等)関係における双方向の恩恵交換である。

一般に、「ケア」というと、余裕のある方が余裕のない人を気遣う、あるいは、健常者が病んでいる人の面倒をみる、あるいは、介護者が要介護者のお世話をする、といったようなニュアンスがあるが、崎川さんの考えだと、そういった非対称の片務的な恩恵の提供は、「ケア」ではなくて「キュア」に分類されることになる。

何か非常な事態や事故に直面し、精神や肉体にダメージを受け、この世における自分の存在基盤が揺らぎ、このままではとても生きていけないような精神状態になっていたとき、じゃあ自分がこの人の「心のケア」をしてあげようと買って出てくれる存在はもちろん尊いが、これだと「持てる者」が「持たざる者に」施しを与える垂直関係の「キュア」にとどまる。

人間が喪失の無力感から力強く立ち上がるには、自分自身の存在意義つまり「自分はここに居てよいのだ」あるいは「自分は誰かの役に立っている」という慥かな手ごたえが必要で、それを体感するには、一方的な施しを受けるだけではどうしても不足だ。

そのためには自分自身が「持てる者」たる位置を失地回復し、相手と水平関係になる必要がある。逆に、施す相手も単に一方的に分け「与える」のではなく、自分自身も相手から何事か豊かなものを「得る」姿勢が必要になる。場合によっては「下心」も、大いにあっていいのだ。

受け取る側が、与える側を深く信頼するのは、受け取る側が与える側を求めているからだけでなく、与える側からも自分が「求められている」と確信できればこそだ。この互恵関係が成立して、はじめてキュアはケアになっていく、ということなのだろう。

もう一つ、自分が印象に残ったのは、「物語と身体」との間に「沈黙」をつくる、という話だ。

全てを語りつくしてしまうような人生訓や宗教的教義を相手に与えて、それを準えさせるのではなく、自由に解釈ができるような「余白」を設けておいて、その部分は、悩んでいる人が自力で埋めることが重要だ、ということである。

崎川さんのこの話を聴いて思い出したのは、小説家の川上弘美さんが言っていた言葉で、彼女はこんなことをある新聞のインタビュー記事で述べている。「小説って、ある種の危うさとバランスの悪さ、訳のわからなさや解決できない部分が大事だと思うんです」と。

川上さんはある権威ある文学賞の選考委員になっていて、自分は、その選評を読むことがたまにあるのだが、この人はその作品の良しあしを「どうとでも解釈できる訳の分からない部分」が読後に残るかどうか、を一つの判定指標にしているようなことを、何度か言っている。

しかし、これはとても高度なテクニックである。なぜなら、こういう「謎めいた作品」は、一つ間違うと「作者が何が言いたいのかさっぱりわからない駄作」と評価されかねないからだ。

ケアにおける「沈黙」や「空白」も事情は同じで、そういった「ブランク」はともすれば「隔靴掻痒感」(痒いところに手が届かないもどかしさ)につながる陥穽がある。しかし、崎川さんはこの空白を埋めるものの正体を教えてくれた。それが「祈り」である。

祈り」とは、簡単にいうと、合掌したり掌(てのひら)を合わせたりといった、非日常的な身体動作をすることだが、そもそも何故そんなことをするのか、そんなことをするとどういう良いことがあるのか、についての説明はまったくなされず、不思議なことに、そんな説明を求める人もいない(いるかもしれないが)。

することの意味の説明もされず、説明も求められないのは、「意味不明であること」自体に意味があることが、暗黙の了解になっているからだ。

当日の配布資料によると、崎川さんは幼いころ、祖父母の家に行くと祖母は孫たちの手をとって、暗い廊下の先にある階段を昇って、二階の部屋につれて行ってくれたそうだが、階段を昇るとき祖母は必ず「アヴェ・マリア祈り」をフランス語で、祈りの章句を一段一段に割り当てながら唱えた。幼き崎川さんたち孫も、それをまねて唱えるのだが、フランス語がよくわからないから、いつもモゾモゾしているうちに階段を昇り終えてしまったそうだ。

崎川さんによると、意味の分からないフランス語を唱えるという「けむに巻かれた」ことが「余白」になり、自分の物語(自分独自の宗教観)を紡いでいけるような自由が生れた、と述べる。

宗教を毛嫌いする人は、まさにこの「肝心なことがけむに巻かれた」感を、受け入れがたく感じるわけであるが、このぽっかりあいた空隙こそが、人類史上、多くの人々を宗教に吸い込んできた入口でもあるのだ。

このことは久しく自分の頭の中にはあった考えだったが、実際に他者が説いている場面に接するのは初めての経験で、これだけでも今日この場にきてよかった、と思った。