思考実験「自分は間違えている」

 人間は一般的に今すでに自分が持っているもの(物事や経験)の価値について、間違った評価ばかりしていると思う。「自分が持っている」ということを理由にして「こんなものはたいしたものではない」と過小評価したり、逆に「これはすごく価値のあるものだ」と過大評価する。

ものごとの客観的な価値は、「自分がそれを持っているかどうか」などとはまるで関係がないのだが、この価値判断の誤謬は、「自己卑下=自分がダメな人間だ」と「自己満足=自分はすごい人間だ」が絶えず交錯している人間の日常的な心理状態と関係があるところが厄介だ。

その人が「今持っているもの」は、ある意味「その人そのもの」だから、不当に卑下したり、不当に持ち上げたり、評価の振れが上下に大きくなりやすいのである。

こういった価値判断の誤謬から逃れる処方としては、試みに、自分自身が「重要ではないもの」と思っているものを「重要なもの」と考えたり、「重要なもの」と思っているものを「重要ではないもの」と逆転して規定してみる思考実験が有効かもしれない。

たとえば人間関係において、あまり影響がないと思っている人を重要な人だと仮定してみたり、自分にとって大切だと思っている人を実はあまり関係がない人である、捉えなおしてみるのはどうだろうか。

婚活中の人は「結婚」が今の自分の人生において最重要テーマだと思んでいることが多いだろうが、じつは人生おいて「結婚」はさほど大した問題ではなく、今、何の価値も感じられず早晩捨て去ろうと躍起になっている「独身生活」の方が、実は自分の人生に追いて重要なのではないか、と考えてみる。

いま結婚生活に心底うんざりして「いつ離婚しようか」と考えている人の多くは「今の自分の結婚生活など大した価値がない」と考えているのだろうが、そこをぐっと踏みとどまって、今放り出そうとしている「自分の結婚生活」の価値をあらためてポジティブに捉えなおしてみる。

人間は、他人に対してだけでなく、自分自身のことにおいても間違った判断ばかりしている。だから、いっその事「自分は間違えている」と仮定して、その視座から物事を眺めなおしてみることも有益ではないだろうか。

ちなみに、こういった思考実験は、「心のままに、感情のおもむくままに」にできるものではなく、理性を働かせた一種の心理作業である。もしかすると苦行かもしれない。

また、この「自己懐疑」のシミュレーションは、その前提条件として強い自己信頼が要る。つまり、強固な足場を持っているからこそ、遠くまで思考の飛距離を伸ばせるのであり、シンボリックに言えば、「肚の底では確固たる自信を持ちながら。頭の最突端では疑う」ことができる人にしかできない。

人間は、基本的に他者から指摘されたり、社会から境遇を与えられたりした時以外、自分の誤りを思い知ることはない。自分自身で、自分の誤りに気づき矯正することは不可能と言い切ってしまいたいほど難しい。だったら、最初から「自分は間違っている」という認識を起点にものを考えることしかないのではないか。