チコちゃんが疑われる

 NHKテレビに「チコちゃんに叱られる」という人気番組があり、先日「鏡の中の自分はなぜ左右逆に映るのに上下は逆にならないのか」という問いがあった。

答えは「わからない」で、「なぜわからないのか」を、大学教授がえんえんと説明していた。その大学教授のもってまわった説明は大層ややこしく、自分はまるで理解できなかったが、何故理解できなかったかを有り体にいうと、そもそも理解する気がなかったからである。

 自分の答えは、チコちゃんが問いを出した時点で割とはっきりしている。それは、「鏡の中の自分は左右逆に映っている」という前提自体がすでに間違っているので、そこを出発点にしているかぎり、いくら論理的な思考を積み上げても「わからない」という「結論」が出るのは当たり前だということである。 

拙い説明を若干試みると、「鏡の中の自分は左右逆である」というふうに、「鏡の中の自分」に、主体性を保たせていることがそもそも間違いである。「鏡の中の自分」は正確にいうと「自分の虚像」であり、無人格な単なる「投影」にすぎない。これは、「印鑑と押された印」の関係、光源を背にした時の「物体と影」の関係、ポジフィルムとスクリーンに投影された絵の関係、クッキーの抜き型とクッキーの関係、これらとすべて同じことである。押された印は印鑑ではないし、影は物体ではないし、投影された絵はポジフィルムではないし、抜き型はクッキーではない。 

これらは自明であり、ここには人間を考え込ませる不可思議なことはなに一つとしてない。問題を複雑にしているのは、「現実の自分」と「鏡に映った自分の姿」をともに主体性を持った存在として同格視し「左右が逆になっている」と認識する誤った前提である。 

ここまで説明して「そうはいったって、実際問題、左右逆じゃん・・」としか考えられない人は、一種の思考の罠にはまっている。このように、「何か問題があり、いくら考えてもいっこうに回答が出てこない、打開策が見えてこない」場合、その問題の出し方、あるいは皆が当然だと思いこんでいる前提が実は間違っているのではないかと、根っこから疑ってみるのはいいことだ。

 あまり良い例だとは思えないが、たとえば、「ひきこもる五十代の息子の将来が心配だ」という「問題」をその親が持っていたとする。地域のケア施設や専門家に助力を乞う、プロレスラーのような怪力の持ち主に依頼して、強引に部屋から引きずり出し「どうとでも生きていけ、何なら死んでもいいぞ」と寒空に突き放す、とかいろいろ「答え」はあるだろうが、おそらくその様々な答えの共通の前提になっているのは「ひきこもりは悪」であり、その本人は「問題のある人」であり、「ひきこもりは解決すべき問題だ」ということである。 

そして、この前提こそが「ひきこもり」状態そのものを助長し、混迷を深めている大本であることに(ひきこもっている本人も含めて)当事者は気づかない、あるいは気づきたくない。ひきこもり現象の根底の理由は「こんな自分が社会に受け入れられるはずがない。こんな自分に社会に居場所があるわけがない」という、本人の自己肯定感の低さ(これはほぼ純度90%超の思いこみにすぎないのだが)にあるのだが、その自己肯定感の低さに日々拍車をかけているのが、周囲(家族や社会)による「ひきこもりは悪である」「ひきこもっている人は問題のある人だ」というネガティブな前提なのである。 

親や社会の「一般常識」は、この場合、ひきこもり問題を解決するどころか、それを助長する働きに作用している。ここで、すべて既存の前提を御破算にして、「ひきこもりは悪いことではない」「ひきこもっても何の問題もない」という新たな前提から出直せば「問題」の様相はガラリと変わる。 

その時点で、そもそも「ひきこもり」自体が解決すべき課題ですらなくなるし、周囲のネガティブ評価から完全に解放されれば本人の心の中から「ひきこもりたい」という心理欲求もいずれ霧散する。 

それでも、「だって、そんな生き方が人として良いなんて思えない」とか「甘いよ。そんなにうまく行くわけないだろ」というたぐいの認識から逃れられないのが相場だろうが、そう思った時点で、すでに間違った方向に一歩足を踏み出している、あるいは出発点が間違っている。これは先述した「だって、鏡の中の自分は、実際問題左右が逆になってんじゃん」という思考枠から出られない状態と同じである。 

繰り返しになるが、誤ったスタート地点から思考を積み上げている限り、以後のロジックが整合していればしているほど、真っ当な答えは永遠に出てこない。世の中に、「発想の転換」を説く人は多く、その言説は多くの人に支持されることもあるが、発想の転換をもっとも効率よく、スムーズに進めるには「公知になっていて今更誰も疑おうとしない条件や前提を敢えて疑い、場合によっては、その破壊と再構築を厭わない」マインドセットであることに気づいている人は、そう多くはないと思う。