宗教に関する断章

宗教学者には、肚の底では何かの確かな信仰があるが、頭(理知)部分でそれを疑っているという、きわめて高度な精神の塩梅が必要なのではないか。そうでなければ、彼らは、「無神論」というよく切れるナイフで死肉を手際よく腑分けするだけの、「腕のいい解体業者」にすぎなくなってしまうだろう。

宗教は絶対性を志向する。あるいは、排他性を本質とする。つまり、「自分の信じる神や仏だけが地球上で唯一真正な存在で、ほかはすべて邪な教えである」という信念を「信者」たちが多かれ少なかれ持ちよっていなければ、そもそも宗教として成り立たないということである。(実は教祖自身は自分の教義を信じていなくてもかまわない)これは一神教多神教も同じことである。多神教は「多くの神々が遍在する」というコスモロジーを唯一絶対の世界観だと信じているのだから、実は一神教とその点で変わらないのである。

たとえば、ギリシャ神話や古事記には、さまざまなキャラクター豊かな神々が登場し、それによってその物語が顕す宗教的風土を「多神教的である」と一般に考えるのだが、古代ギリシャや古代日本において、それらの神々の世界の他に「異国の神」が存在するとはおそらく規定していないのである。言葉を換えれば、一神教にせよ、多神教にせよ、それらが構成するコスモロジーは一つであり、つまりその存在は絶対的なのである。