鈍感さの上に咲く幸福の花

 幸福とは有り体に言えば、「良い人間関係の中で暮らしている悦び」のことである。おカネも、栄誉や褒章も、仕事も、名声も、すべてよい人間関係を作り上げ維持するための「手段」あるいは「素材」に過ぎないし、素材があるからといって、その人が幸福であるとは限らない。素材だけではいい料理ができないのと事情が近い。

よい人間関係とは、つねに、瞬間風速的な「一時的な状態」なのだが、これが「永遠に続く」という楽観的な見通しが無いと、いま確かにある幸福をちゃんと味わえない。つまり、人間が幸福であるには「永遠」への信仰が、必要条件になる。

人間関係は、体重や天候のように日々刻々変化するものだが、それをあたかもある種のライセンスのように一度獲得すれば更新試験不要で永続するものだと無邪気に誤認することなくして、幸福感は味わえない。しかし、皮肉にも、その誤認が油断と化し、命取りになって、幸福はある日突然崩壊することになる。

「幸福」は誤認や油断とつねに抱き合わせになっている。ゆえに、いつ何どき破れても不思議ではない危機にさらされているのだが、その危機を危機と感じない鈍感さの上にしか、幸福という花は咲かない。