「膝枕」からの目覚め

 休日の昭和記念公園に訪れる人たちは、家族連れかカップルがその大半を占める。芝生広場では、ボール遊びなどの興じる親子や、レジャーシートの上で二人で寝そべるカップルの姿であふれている。そういったカップルの中に、たとえば女性の膝枕で横になっている男性などをみると、自分はなんともいえない危うさを覚える。

膝枕で横になる男性は、女性に「甘えて」いる。男性としてはかつて子供だったときの、自分の母親へ欲するままに依存した甘い記憶がよみがえっているのだろうが、今目の前にいる女性は、残念ながら「ママ」ではない。そして、慈母のごとく膝を貸して微笑んでいる女性の何割かは「あたし、あんたのママじゃないんだけど・・・」と密かに思っていることも、ほぼ確実なのである。

本物の「ママ」は実の子供に対して「この子は愛せる子供かどうか」を確かめてから愛するのではない。「自分の子供である」というただ一つの事実を根拠に無条件の絶対的な愛情を注ぐのである(例外もあるが、たいていは)。

それに対して、膝枕の女性は、男性に対して条件ありの好意を寄せているに過ぎない。その条件は、社会的な地位だったり、学歴だったり、収入だったり、コミュニケーション力だったり、容姿だったり、何だかいいにおいがするという相対的なもので、その条件だてが崩れれば、その分その関係も崩れるワナのもとにある。

男性側は「親しくなった女性は、すべて『ママ』である」という妄想を抱きがちであるが、この妄想が極限に達したタイミングが、男性にとってしばしば恋愛における幸福の頂上である。そして、その突端は常に崩壊する危機に瀕して震えているもので、「膝枕」の光景はその危機と裏腹にある。

だからといって、いま幸福の暖かな光に包まれて、安寧のさなかにいる男の肩を揺すぶって「目を覚ませ、この膝枕野郎」というのも大きなお世話であるが、この慈顔で自分を見つめている女性は実は「ママ」とは似ても似つかない一個の「他人」、あるいは条件を付けて自分を値付けする峻厳な「批評家」であるという現実には、早めに気づいておいた方が、のちのち何かとスムーズにいくと思う。