美しい顔

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 新宿駅の地下通路で、美人の誉れ高いある若手女優の大きな壁広告を見て、なんという美しい顔だろうと思いつつ、美しい顔に生まれついた人生について少し考えた。


年少の頃から容姿の美しさを賛美され続けた人は、自分の価値は容姿にしかないときっと思いこむようになるだろう。その思い込みは、きっと「もしそれを失う時が来たら、自分なんか誰も相手にしてくれなくなる」という怖れと裏腹になることだろう。

そういう人にとって、鏡に映る一片のシミも、一本の皺も自分の価値を棄損するトラブルとして、なかなか受容することはできないだろう。ここから、果てしない老いや衰えとの格闘が始まる。それは決して勝ち目のない絶望的な格闘である。

先日、ある新聞の投書欄で、この春大学に入学した女性が、サークルに勧誘してもらえないことを嘆いている話を読んだ。この新入生は容姿に自信がなく、自分が勧誘されないのはそのせいであるとして、男性の軽薄さと世の不条理を嘆いているのだが、

ここで「そんなふうに容姿で女性を簡単に選別するような男はこちらから願い下げにすればいい。上等な男はあなたの本質を見ているから、そういう男が現れるのを待てばいい」みたいなことを言っても、どこか嘘っぽい。なぜなら、容姿とその人の内実がほぼ関係ないのが真実ならば、「容姿も本質もともに悪い」女性も一定数存在するであろうからだ。「いじわるな美人と心優しいブス」という対比構図は、確かにドラマや漫画では存在するが、きっと普遍的なものではない。

特に言いたいこともない文章だが、ひとつだけ言い切っておきたいことがある。それは容姿は幸福へのパスポートでも不幸へのとば口でもない、という真実である。それどころか、容姿が美しいばかりに、肉体的欲望や、経済的利用の標的になり、その結果癒すべくもない深手を負ったり、自分自身で取り返しのつかない愚行に走ったりすることがままある。世の中は、美人が嵌る罠に満ち満ちている。

結局のところ、その人が「美人」にせよ「ブス」にせよ、容姿に過度に依存したり、囚われたりするとろくなことはないだろう。少なくとも、容姿を金銭と交換するような仕事や振る舞いは、避けたほうがよいだろうし、容姿の良さというものは、刺身のツマや、寿司のわさびのようなもので、本質的ではないが悪いより良いに越したことはない、ぐらいに位置づけておくのが順当ではないだろうか。