女装教授と「嫌われる勇気」

f:id:kirinta8183:20190413005952j:plain

 

 例によって、絵と文章は関係はない。

「嫌われる勇気」(岸見一郎・古賀史健)を再読する。一度目で大まかな主旨はつかんだつもりでも、二度目だとまた違う味わいかたができる。また、そもそも忘れているところ、ちゃんと読んでいなかったところがたくさんあることに気づく。

「嫌われる勇気」とは、「相手の尺度で自分を測らない覚悟」という意味で、そういうことをすれば往々にして相手から「嫌われる」ことになるのだが、それを怖がってはならない、という意味である。

安富歩という大学教授がいる。この人は女装をして教壇に立ったり、地方自治体の首長選挙に出たりしてる世間的に言えば「変わり者」だが、彼の場合、意図的に変わり者になろうとして女装をしているのではなく、この装いが自分の生理的欲求に合致し、それが悦びでもあるから、女装している。世間的には、男性が女装することに対して眉をひそめる向きが多く、つまり女装は世間から「嫌われる」最たるものだが、安富氏はそれが自分が幸福感を持って暮らすために必要なことであるという確固たる信念をもって、おそらく「勇気」をふるって女装している。

もっとも「勇気」がマキシマムに要ったのは女装初日であり、それは徐々に自他ともに受容されていったのだろうが、一歩踏み出す時に相当な勇気が必要だったことは間違いなく、たとえばこれが「嫌われる勇気」を振るった実例であると思う。

安富氏は「女装は気持ちが悪いものだ」という世間の尺度から自分を分離し、自分独自の尺度や欲求で行動し、安心と悦びをつかみとった。安富氏のような目に見える装いはわかりやすい例だが、人間は生きていく上で、無数の世間との違和感や社会的常識との噛み合わなさと戦っている。

その深さ浅さや、広さ狭さは様々で、手前勝手な嗜好や、自己中心的な感情論は、時には押さえ込むことも世渡り上必要なこともあるが、そういう表層上の都合を超えた、もっと本質的な問題として、一人一人の人間は自分の価値観で生きなければ幸福になることができず、そのためには「嫌われる勇気」を持たなくてはならないのは普遍的な事実である。

この事実は、現実的に出来るとか、出来ないとかを超えている。困難であることと事実であることとは、本質的に何の関係もない。たとえば、エベレストの高さが海抜八千メートルであるという「事実」と、人間能力的に登るのが難しい山であるという「現実」とは何の関係もないのと同じである。

この勇気を持たないばかりに、一生を憤懣やるかたないストレスや、世間の耳目をおそれ汲々とした感情を抱えたまま終わった人生はおそらく数百億を下るまい。そういう人類史で幾たびも繰り返された人生をおとなしくなぞるのが嫌ならば、人間は「嫌われる勇気」を持つしかないのである。

安富氏も、自分の内面から明確にけたたましく聞こえる「女装をしたい」という内なる声を無理矢理に封じ込んで「常識的範疇のちょっとユニークな男性教授」として穏便に暮らそうと思えば、できないこともなかっただろう。しかし彼は直覚的に、それでは自分は永久に幸福になれない、ということを識っていたので、勇気を奮って「女装して人前に出る」という行動に出た。

語弊があるが、これ以上「雄々しい」行動は自分には想像ができない。なぜならこれは極めて先鋭的な「平時における勇気」だからだ。「勇気」といえば白刃きらめき銃弾飛び交う戦場で突進していくような光景を想像しがちだが、これは「非常時における勇気」で、実はその場にいれば自ずと生理的に噴出する性質のもので、このたぐいの感情は人間だけでなく動物でも持つことが出来る。

「平時における勇気」とは、人間だけに要求される社会的・意志的なもので、これを個人が内面で鼓舞することは難しいのである。もっとも、伝説の中の孔子様のように自己の生理的欲求に則って行動することが世間の価値観とぴったり合致し何の齟齬も生じないようならば、あえて「嫌われる」ようなことをする必要など初めから無いのも当然のことだ。また、安全な場所にいて安楽に暮らしている分は「勇気」など暑苦しいものは無用の長物である。

しかし、たいていの人生は、そんなふうにうまく事は運ばないだろう。安富氏ほどの一世一代の大勇を振るわずとも、「嫌われる勇気」を振るうべきタイミングは日常生活では事欠かないはずだ。二度目の読書は、その思いを新たにさせてくれたのである。