バカの巷

「頭にきてもバカとはつき合うな」みたいなタイトルの本を最近そこらじゅうでみかけるが、相手が「バカ」であることで「頭にくる」のは、自分に対する一定の影響力が相手にあると認めていればこそだ。

自分に対して影響力がない「バカ」に対して人は「頭にくる」ことはなく、ただ無関心なるだけだ。

「あいつは度し難いバカだ」と感情を高ぶらせて罵る時、人は相手の「力」を多かれ少なかれ認めている。誰かを「バカだ」と罵ることは、相手のことをバカだとは実は思っていないあかしでもある。

そして人間は、他人から「あいつはバカだ」と思われる宿命から決して逃れられない。なぜなら、人間は自己絶対視という主観性から逃れられず、日常生活において、必ず相手の思考や態度が自分の間尺に合わない時が訪れ、その不快感を拭う手段として「バカ呼ばわり」は、もっともお手軽でかつ効果が高いからである。

さらにいえば、相手をバカだと心の中で思う気持ちは、相手にすぐ伝わり(この即時性は”悪事千里を走る”と同じ原理である)、そうなれば報復として相手もこちらのことをバカだと思わずにはいられない。そしてエンドレスのバカ呼ばわり合戦の幕が開ける。

人間は、ともに相手をバカだと罵り合う修羅の巷に生きている。一人だけ超然としてはいられないし、そんなことができると思い込んでいる人がいたら、その人こそ度し難いバカである。