選択
フィギアスケーター 紀平梨花選手
友人から、離婚を考えているという話を聴く。
結婚生活が破綻しているか平穏に営まれているかどうかは、せんじ詰めるところ当事者の心の状態に拠る。心の状態、つまりは「気分」であるからから、その「転換」も簡単に思う向きもあるだろうが、心のコントロールの難しさは、自分自身の気持ちが自分でもどうすることもできないことで、各自が日々骨身にしみているところのはずだ。
ある一念がわく。それが水面に落ちた一滴に墨汁のように、心の中に広がっていく、自分自身はそれをどうすることもできない。自分では、自分の心を少しもコントロールできないのに、他人にそれを期待するのは無理である。
客観的に観れば、彼の言い分には夫として父親として身勝手なところもあり、友達として「耳が痛い忠告」をすることもしようと思えばできたが、自分はしなかった。この期に及んでは、彼の心境を受け容れ彼の行動を肯定するしかできないと考えた。
彼の人生の選択が吉と出ようが凶と出ようが、その果実も過酷も受け止めるのは彼自身である。余人はその現実に一指もふれることはできない。
今日の新聞に、こんな言葉が載っていた。
「人は一人ひとり自分の人生を生きていて、他の人がそれを十分理解したり、手助けしたりできない部分を芯に持って生活していると思う。」
「誰もが弱い自分というものを恥ずかしく思いながら、それでも絶望しないで生きている。そうした姿をお互いに認め合いながら、懐かしみ合い、励まし合っていくことができれば」
この言葉の主は皇后の美智子様である。自分は、これほど人生の現実を突き、しかも平易に表現された言葉を知らない。