自由と不自由

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イワン・イワーノヴィチ・シーシキン 「雨の樫の木」

 生涯結婚するつもりがない、という知人がいる。結婚をするかしないかは全く個人の自由で、そのビジョン、あるいは生活哲学に誰も口をはさむことは出来ない。・・自分の言いたいことは以上に尽きるので、以下はつけたりの話。

 

 結婚しないと老後が寂しいとか、孤独死するぞとか、葬式はどうするんだとか巷間いわれているが、結婚していようがいまいが、老後が心細しく、そして一人で死んでいくのは生物としての人間のデフォルトで、結婚にその原初的な寂寥感を少減させる役割を期待するのはやや無理がある。

子供がいないと体が不自由になったときに介護してくれる人がいないではないか、という声も聴くが、子供は親のために存在するのではない。子供には子供が直面している人生の課題があり、基本的には親はそれを邪魔するべきではないし、そもそも親族間の介護の過酷さやその破綻の凄惨さががここまで露呈している現代においては、老人の介護は、家族間の義理や情によるウエットな努力よりも、公的な制度によるドライな支援に厄介になるのが合理的である。(もっともこれは日本の社会保障制度続けばの話ではあるが)

独身者に対して、大所高所から攻めてくる向きもある。例えば、国の生産性や固有の文化を維持・発展させるためには、国民たるもの結婚して子供を産むのは義務ではないか、みたいな口吻がこれに当たるが、日ごろは国のことなどちっとも考えていないくせに、このテーマに関しては突如殊勝なことを言い出すのはどうも怪しい。

そんなに天下国家のことが心配なら、日本中の独身者に、結婚と子産み子育ての意義を説いて回ったらと思うがそこまでの志は無い。彼らは、要するに「結婚をして子供がいる」という自己を肯定し、その要件を満たさない他者を否定をして、いい気分になっているだけなのである。

 

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イワン・ニコラエヴィチ・クラムスコイ「月明かりの夜」

国益」にかこつけて言えば、必要なのは独身主義者や子供がほしくない人に、結婚や子供を持つことのすばらしさや義務性を説くよりも、結婚相手を見つけたくても達せられない人、子供がほしくても持つことが出来ない人への支援を厚くするべきだ。欲しくもない水を無理矢理馬に飲ませようというのは見当違いである。

日本の国益といったマクロの課題と、個々人の人生というミクロの課題は、ひとまず分けて考えるべきだ。マクロの課題は、ミクロの課題解決の集積によって解決することは確かだが、マクロの課題解決の責めをミクロに一様に押しつける行動は、ほぼ破綻することは歴史が示している。

社会のありかたを考える思想は、紆余曲折を経て、自由に考え行動する権利を持つ多様な人びとが寄り集まって秩序を醸成するという、巨大な矛盾をはらんだ一種の「奇跡」を期待することが、もっとも合理的だという結論に達している。

自分は、この到達は人類の社会思想における進化の極みであり、このモデルを見失うことは「退化」だと思う。

そうはいっても、個人を制限する同調圧力が社会を組み上げているという現実が確かにある。それと、個人の人生の選択の自由という理想は常に対立するものだが、この二つが対立している状態こそが健全だと思うし、この対立なくして社会制度の整備も進まず、社会や人間に関する個人の思考も深まらないように思う。

そのそも詩や小説、戯曲などの文学の主要なテーマは、「社会の同調圧力と個人の自由の相克」なのだから、この対立がないと芸術すら成立しないのである。

冒頭に触れた独身主義の知人も、「今のところは」という但し書きをつけている。彼の中にも社会の同調圧力との葛藤があると見え、その信念が揺らぐことも予期していないではない。一つ言えることは、「結婚」とは、「●山○子さん」という肉体と精神をかもつ他者と双務契約を結び家族を構成するということである。だから、将来、肉体と精神を持つ「●山○子さん」が確かな姿で目の前に登場し、言葉と体をぶつけあった共同生活が始まれば、彼のこれまで積み上げてきた「結婚」に対する抽象的思弁はすべて霧散することだろう。

この霧散が幸福への出発点なのか、地獄への入り口なのかは誰も知らない。結婚は幸福を保証するものでも不幸を約束するものでもない。結婚生活で幸福の絶頂を知った人も、不幸のどん底を味わった人も等しく存在する。これは結婚に限った話ではなく、家庭生活とはそこに参加する心理状態によって、天国にも地獄にもなる。

・・なんだが結婚論のような文章になりかかっているが、冒頭に書いた通り、自分の関心は実はそこにはない。「個人の自由意思は尊重されるべきだ」というかつては当然すぎるほど当然だった考えが、最近は(日本に限らず世界的に)どうも揺らぎに揺らいでいるように見える、そのことが言いたかった。

尊重されるのは「権力者の」自由意思で、その他大勢は不自由を忍従して耳も目も口もふさいでそれに盲従することが常態になりつつある。

ただ、この状態を招いたのが、政治における民主主義、経済における自由主義が進行した結果、政治権力は一極に集中し、経済利得は偏在していったというところがややこしい。つまり、現在の「不自由」を招いたのは過去の「自由」だったのであるが、この難問に対する解は、いまのところ誰の頭の中にも無いように思う。

 

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ミハイル・ゲルマーシェフ作『雪が降った』