言葉と論理

ロジカルシンキングという言葉があるが、真にシリアスなことがらにおいては、生身の人間はロジカルにシンキングなんかしない。シンキングに社会性を持たせるためにロジカルを演じているだけだ。

ロジックには、電池と電線がつながり豆電球が点くような力強さがなくてはならならず、金魚のフンのようにただつながっていればいいというものではない。しかし、世の中には、かぼそい論理の糸をつなげる頭脳遊戯ができる人を「頭が良い」と見なす極めてバカげた風潮がある。

弱々しい論理の糸をつなげる小手先のお遊びが得意な人びとを揶揄する言葉に、「理屈と膏薬はどこにでも着く」というものがあるのだが、こういう真実を突く言葉が使われなくなるにつれ小手先のお遊びが跋扈する、ということになる。

じつは、弱々しくても論理がつながっていればまだマシなほうで、ロジックなどそっちのけ、どんな支離滅裂なことを言おうとも、敵を黙らせ、その場をしのげればそれでいい、という言葉の使い方がなされることがある。それは真実や事実を見出すための議論ではなく、お互いの立場を守るために言葉をタテやホコにしているケースだ。

言葉を磨くことを怠り、タテやホコとして使ってばかりいると、だんだんその人の言葉は粗くなっていき、かんじんの切れ味も失われていく。切れなくなった刀は、むやみやたらに振り回して殴りつける以外用途がない。それでも相手を十分に傷つけることはできるから、自分は鋭い言葉の使い手であるという迷妄から逃れられない。

突然話はかわるが、きのう自分は、小学生の娘のある習い事の送迎をした。娘は行った先で、何人かの友達と、それぞれが持ち寄ったお菓子の交換をしていたのだが、そこで交わされている会話が、きわめてロジカルに展開されているのに驚いた。

そこで自分は、人間と人間の言葉によるコミュニケーションはかくあるべきではないかと、考え込んでしまったのである。


丁寧な言葉をつかいながら、「お前が嫌いだ」という本音を伝えることも、逆に、乱暴な言葉を使いながら、愛情や好意を伝えることも、ともに可能である。

言葉は自分自身でも自覚していない潜在的な本心を、はからずも明らかにしてしまうものでもある。どんなに豊富な語彙をもち、華麗なレトリックを操ろうとも、逆に、どんなに貧しい言葉づかいをしようとも、発する言葉には、その主の人間性や本心が恐ろしいほど出る。「文は人なり」と言ってしまえばそれまでですが、こういうことを最近よく感じる。

同時に、言葉というものは、徹底的に言葉を選び、細心の注意を払って表現を研ぎ澄まさないと、他者に本当のところはつたわらないのだということも考える。これは美術でいう「細部に神は宿る」という思想に通じており、錐の先端は極限まで尖らせてはじめて深い部分にまで刺すことはできるということにも似ている。