ブッダの論理式

 

「小さい男の子が、たいしてしたくない時はさせてもらえるが、したくなったらさえてもらえなくなるものは?」

こんなナゾナゾをどこかで見たことがある。答えは「女湯に入ること」。

宿泊施設や銭湯において、乳幼児は、男女問わず母親と一緒に女湯に入ることが多いが、男の子において女湯への入場は何歳まで許されるか、という問いに対しての答えが、このナゾナゾにはある。

「したくなったとたんに、させてもらえなくなる」とは、アイロニカルで、理不尽なようだが、実は「したくなったときに、させてもらえる」よりも、これはよほどありふれた光景であり、人生の真相も実はそこにある。

「無心で戦っていたときは、連戦連勝だったが、勝ちを意識したとたんに勝てなくなった」
「うまくいって欲しいという願望が高まるほど、失敗することが多くなる」

生きているとそんなことばかりだ。欲望や願望は人間の技能や精神を生長させるが、それと同等か、より以上の頻度で衰退や破滅にも導くのである。

「したいのにさせてもらえない」つまり「欲望があるのに充足させてもらえない」という状態にこそ、人間の苦痛の真因がある、だったら、苦痛から解放されるには欲望を持たなければいいではないか、と説いたのはかのブッダである。

ブッダの説くこの世のことわりは二つある。あるいはそれしかない。それは、

諸行無常・・・すべてのものは変化し、動いている
②小欲知足・・・欲がなくなれば苦もなくなる

以上である。

ブッダはその生涯を通じて、極論すればこれ以外のことを言っていない。その他の「仏教の教え」はすべて、二つの源流から分岐した支流か、後世作の神話か、インド土着宗教や体術との化合物だと観てよい。

注意を要するのは、ブッダは、物質の原理や、人間の心の構造の論理式を提示したのであって、その論理式を生身の人間に適用し、実人生の中で運用するにはどうしたらいいのか、までは説明してくれていない、ということだ。

ブッダは「弟子たちよ、嘆き悲しんではならぬ。すべてのものは移り変わるのだ」とか、「若者よ、欲望の炎を消せ。さすれば心は湖水のように平安になる」的なことはいくらでも言う。

けれども、そもそも「すべてのものは移り変わってしまう」こと自体を人々は嘆いてきたのだし、燃え上がる欲望や根強い願望がお題目ひとつで消減するものなら、なんの苦労もない。

近代的概念における「哲学」は、物質や人間や社会の仕組みや、存在意義を解明し言語化するまでがドメインで、「だからどうすればいい」という実用法や運用術を指南という重たいミッションは、本来は帯びていない。

「人生哲学」や「経営哲学」という、実用を指向した言葉の遣いかたがあるにはあるが、こういった語法は、本来の「哲学」の概念からやや遊離したものだろう。

ブッダの論理式には宗教の臭みも香りもない。彼が説いたの正統的な哲学である。そして、ブッダが原理の論理式だけを提示し、「だからこうしなさい」という具体的な運用方法には踏み込まず、その技術開発は後世にゆだねたからこそ、仏教の教えは、分岐し、繁茂し、その思考の根は途轍もない深度まで到達したのである。

現代における「仏教」という大樹が現出している宗教面、思想面、文学面、芸術面における偉容は、ブッダが遺した起源の論理式が、いかにリアルであったを二千年に渡って証明している。

これは「神」という虚数を起源としてその存在証明から現世対応の指南までする一般的な宗教神学との大きな差異である。