2018_06_15 ハイヒ―ル

ネットで拾った画像から。

 写真を見ながら絵を描くことのもっとも大きな利点は、モデルが動かないことだが、「動かない」ということはいつまでも、どこまでも対象に制約されるということでもあり、その一種の「奴隷根性」によって、緻密に対象に似せて描こうという欲求が抑えられなくなってしまう。

この時に、先がとがった筆(よく削られた鉛筆など)を持つともういけない。細部への拘泥に際限がなくなってしまい、その分、全体のバランスが犠牲になる。徒然草吉田兼好が「よき細工は少し鈍き刀をつかう」と述べたのは、このあたりの塩梅の難しさを指している。

腕前の確かな職人ほど、あたら鋭すぎる刀を持つ陥穽を警戒しなくてはならない。自分は「よき細工」でもないなんでもないが、細い線がひける道具を手にすると、錐でもみこむように細部に耽溺しだして、歯止めが効かなくなる。

中世以来の西洋の細密画などを観ると、部分部分の見事さにはまったく感服するが、全体として画を眺めたときに、何とも形容のしようがない無様なバランスの悪さに脱力することがある。

現代の、写真と見紛うばかりのスーパーリアリズム調の絵画は、絵の本質を観抜く目がない外野の賞賛を得るにはてっとりばやい手法だが、その代わり、細部への過剰な拘泥によって、重要なもの、本質的なものを、ごっそり釣り落としているケースが少なくない。

こうい罠に堕ちないためには、「鈍き刀」つまり細密描写ができない穂先が太い筆を持つといいと思うが、素人を脅す快感に惑溺している人が、その選択をすることは容易ではないだろう。