或る「感じ」について

数日前、自分はあるファストフード店で、イヤホンでジョン・レノンを聴きながらコーヒーを飲んでいた。ちなみに自分はジョン・レノンのファンでも、とくにコーヒーが好きなわけでもない。たまたまそういう状況だったというだけである。少し離れたところに3歳ぐらいの女の子と若い母親が食事をしており、自分はその子供から目が離せなくなった。

ちなみに自分はジョン・レノンとはちがい人間の子供はとても好きで、見かければ性別問わず無遠慮に見てしまうところがある。人間の子供は人間以上の神々しい存在のように思われて、そのまぶしさから目が離せなくなってしまうのだ。若い頃からそうだったが、自分に子供ができてからはさらに拍車がかかるようになった。

こちらが長い間見ていると、片思いが両思いになるように、向こうもこちらを見るようになる。大人社会では見知らぬ者同士はむやみに目を合わせないのが生きる知恵だが、そんな処世術は子供には通用しない。子供は一度視線があったら最後、容易にそらさない。おそらく、それがモノだろうが動物だろうが人間だろうが、ひとたび目に入った対象を理解し尽くそうという意欲が、大人とは比べものにならないほど豊富なのだろう。

その遠慮会釈ないまっすぐな視線に少々たじろぎながら、自分も負けじと子供を見る。なお、自分は子供と目が合ったときは、なるべく自分からはそらさないことにしている。そらしてしまうと子供の気持ちを傷つけてしまうような気がするからだが、これは気の回しすぎかもしれない。

その日、子供が自分から目をそらした後、こんなことを思った。もしここに天の声が聞こえてきて、「あの子は明日死ぬ運命だが、今ここでおまえが死ねば、あの子の命は助けてやろう」と言われたら、自分は命を手放してもいいと。

しょせんは馬鹿げた仮定だし、現実問題として両親が存命で妻子もある自分はそうやすやすと死ぬわけにはいかない。しかしその時、自分が瞬間風速的にでも、そういった感傷にひたったのは事実であり、それをジョン・レノンの曲につなげると話が嘘くさくなるが、自分のこの心の動きには、なんらかの普遍性があるような気もする。

自分はこの先どのぐらい生きるのかわからないが、五十歳を目前にして、何だか人生に一区切りがついたような感覚がある。こういう或る「感じ」は、余人がどう否定しようが慰めようが、本人の内的な感覚としてどうにもぬぐいようがないものである。たとえば多くの人は三十歳を迎えたときに、青春時代の閉幕を否が応でも意識するもので、今の自分の年代感覚からすれば三十歳なんてほとんど高校生の延長戦のようなものだが、当人にはそんな批評は届かない。

では「一区切り」ついた自分はいったい何を求めているのかというと、大げさな言葉を使えば「死に場所」あるいは「死に甲斐」なんだろうと思う。だからといって、自分の人生もエンディングだという覚悟を決めたわけでもない。自分はまだ死にたくないし、死ぬわけにもいかない。しかし「一区切りがついた」という或る「感じ」は、心の中からもう消しようがないような気がしているのも本当なのである。

先日ラグビー平尾誠二さんが53歳で亡くなった。最近、有名人が五六十代で世を去った報に接することが多く、食生活が欧米型になった世代はおそらく平均寿命がそれ以前の世代に比べると格段に下がる統計が、いずれ出るような気もする。

「死に場所」「死に甲斐」という大仰な言葉を使ったが、この言葉は「生き場所」「生き甲斐」とほとんど同じ意味であり、その人の死の意味は、その人の生の価値と釣りあっている。自分の死に豊かな価値を持たせるために(例えば平尾さんのように「惜しまれて死ぬ」ために)、今、生きて何を積み上げることができるのかに、そろそろきちんと向き合わなくてはならないような気がしている。