見慣れた、ありふれた物ごとや風景ほど

 見慣れた、ありふれた物ごとや風景ほど、記録や記憶に残しておく価値がある。それはいつのまにかきれいさっぱり消え失せるものだから。ただ、人間は、「ありふれている」というただその理由だけで価値を見損なうものなので、記憶にも記録にも残そうとはしない。

失われた空気や価値観を識りたければ、その時代における「現代小説」を読むのがいちばんよい。たとえば、平安時代の貴族社会を知りたければ、源氏物語を読むのがいい。現代人が書く歴史小説は、作者によほどの識見と千里眼がないかぎり、現代の過去への投影に終わり、過去を識るよすがにはならない。

例えば、源氏物語はフィクションだが、そこに描かれている風物や、人々のふるまいや価値観、感性、行動原理は、それぞれ真実である。

人間の身体のどんな切れっぱしにでもDNAが在るように、その時代に書かれたどんな片言隻句にも、その時代が宿っている。この事情には、そのテキストの文学性や芸術性は、ひとまず関係がない。

未来に文化的遺産として残るのは、源氏物語のような「現代小説」だけだ。現代から過去を照射した歴史小説は、その時代のエンターテイメントとして消費されたのちは、ほとんど残らないのではないか、という気がする。