見えない化

 電車の中、スマートフォンで、「リコントドケ」はそこで手に入るかと問い合わせている女性がいた。彼女の手首から腕にかけて、長い絆創膏がたくさん貼ってあった。

なにも電車の中からそんな問い合わせをしなくてもよさそうなものだが、きっとだれかに聞いて欲しかったのだろう。

からだの傷は一目瞭然だが、心の傷は目に見えない。それを、他者とそして自分自身にも「見える化」するのが、リストカットの目的の一つである。

見える化」も営業成績や業績目標を壁に貼り出すぐらいのレベルなら罪はないが、目に見えない心の状態を結像させる領域までいくと、しだいにズレが生じるようになる。

どこかの国には独裁者親子の「御真影」を飾りバッチをつけるきまりがあるが、あの掟は国民の「忠誠心がある」ことの証明よりも、「忠誠心がない」ことのカモフラージュに役立っている。とりあえず外形だけ整えておけばあとは心でどう思おうが処世的にはオッケー、みたいな。

日本における「国旗掲揚・国歌斉唱」問題も構図としては同じで、これらを当局の権力によって強制することは、「国旗を揚げ、君が代を歌っておけば、心の中では何を考えていてもオッケー」ということになり、愛国心の「醸成」どころか愛国心の「空洞化」という、まるで逆さまの結果に陥るだろう。

「心の状態を外形で担保するような試みは空洞化に至る」という真実は、一神教における「偶像崇拝の禁止」という戒律において実践されている。(もっともキリスト教においてはそのタガが相当緩んでしまっているけれども。)

手首にカッターで刻みつけた無数の傷は、その人の心の様相を顕していない。その人が心に抱いている傷は、可視化された肉体的な傷痕とは、定性的にも定量的にも非対称で、永遠につり合うことはない。

それが「つり合わない」のはまだまだ刻み付ける傷の量が足らないからだ、と誤解しているあいだは、自傷行動は何度でも繰り返される。

大切なのは、痛みにしろ、悦びにしろ、哀しみにしろ、「目に見えないもの」の存在を信じ、自他を洞察する力だ。これはふつう考えられているよりもずっと健全な能力で、これができないと、外形や「見える化」を過度に依存することになる。

「目に見えないもの」が信じられないのは一種の現代病でもある。二言目には「証拠はあるのか」「エビデンスはどうした」という心性から垣間見えるのは、論理や実証を重んずる合理精神ではなく、それなしには精神の均衡が保てない極めて脆弱で不安定な心の様相である。

さらに言えば、そういう風潮のもと、「心の痛み」の客観的な証しを立てる必要を強迫されているからこぞ、自分の身体に傷痕を刻みつけ、提示する行為から、「彼女たち」は離れられないのだろう。