教養とは何か

「教養」を論じる人は、「自分はそれを持っている」という無言の宣言をしているように思われがちだが、そんなことはない。量の多寡や、質の高低こそあれ、教養は誰しもが備え持っているものであり、誰でもそれを手がかりして論じることはできる。では教養とは何か。

言葉の定義にもよるが、一般にいって、「教養」と「知識」はイコールではない。論理式風に記せば、教養には知識が必要だが、知識があるというだけでは、その人は教養人だとは言えない。

教養とは知識が変体したものだ。比喩的にいうと、知識は「氷」であり、教養は「水」だ。知識がいくらあっても教養があることにはならないが、知識があれば教養を手に入れるチャンスは増える。

知識という氷を、教養という水まで融かすには、得体の知れない熱が要る。融かそうとしても融けるものではないし、いつのまにか融けていることもある。融かすのに膨大な時間がかかることがあれば、あっという間に融けていることもある。(また、この「得体の知れない熱」自体が教養でもある。)

最近、「ビジネスの役に立つリベラルアーツ」という視点で教養の意義が論じられるのをよく見聞きするが、教養の価値は、そういった実利面だけでなく、もう少し広い視野でとらえた方がいい。臆面もなく言えば、教養とは「自分自身と、自分以外の他者と、自分を取り巻く社会環境や歴史的事物への愛」だ。

つづめていえば、教養とは「知への愛着」のことである。知識人と教養人の差異は、古代ギリシャにおける「ソフィスト(知識人)」と「哲学者(知識を愛している人)」の差異になぞらえることができる。つまり、知識を実利(社会的な認証獲得)上の手段や道具としてみなす人間と、知識自体に愛着を持っている人間の差異だ。知識は理性だが、教養は感情である。

「何の実利ももたらさないが、知っているだけで何となくうれしい」という意味では、教養人はいわゆる「オタク」の在りようにも似ている。では教養とはオタク趣味のことなのか。ある意味、それはイエスだ。

ぼんやりとした推測にすぎないが、日本では年間3万人からの自殺者が発生するが、その中には本物のオタク趣味を持っているひとは殆どいないと思う。オタク趣味には人間を絶望から遠ざける力がからだ。そして、真の教養にも人間の命を救う力がある。

これほど「役に立つ」現実的な力も、他にはそう無いだろう。この圧倒的な力に比べれば、「ビジネスに役立つリベラルアーツ」程度の価値など、吹けば飛ぶようなものだ。

最近、複雑な現実事象を簡略化して説明することができることが教養人であるかのようにみなす風潮があるが、実はまるで逆さまだ。「誰でもわかる」式の簡略化には勝手な捏造と隠蔽がつきものであり、それらは教養とはかけ離れたものだ。

教養とは、現実を「わかりやすく」説明する力ではない。現実の複雑さ、精妙さをそのまま愛着をもって受け容れる態度だ。対象が複雑であればあるほど好きになり、「わかりにくさ」そのものを面白がる心だ。(ここでも教養はオタク趣味と通底するものがある。)

「わからない」ということは、「わかる」ことと同じぐらい、否それ以上に魅力的なことだ。(例えば、男女がお互いひかれあうのは、お互いがわからないからだ)その快楽を研ぎ澄ますのは、その人の持つ教養の力であり、その涵養は、ふつうに考えられているよりもはるかに重要なことだと思う。