自分も含んだ社会を俯瞰的に観る

スシ詰めの電車が駅に着き、さらに人の波が車内に押し寄せようとしたとき、「何だよ、こんな満員電車に乗ってくるんじゃないよ」というつぶやきが自分の後ろの方から聞こえてきた。

その人の人生観は、オフィシャルな場での言説より、プライベートでの片言隻句に現れる。それは、肉体のどんな切れ端にもその人のDNAが宿っている事情に似ている。はからずもつぶやきの主は、満員電車で自身がかねて抱いている人生観、この場合は社会観を開陳したのである。

彼が開陳した社会観とは、「社会とは自分を除いた形で存在する、他者たちの集合体である」だが自分は、こういった社会観は決定的に誤っていると思う。社会とは自分の外にある客体ではなく、自分自身の存在も含んだ総合体ではなかろうか。

満員電車で個々人が感じている不快感は、決して自分以外の他者から押しつけられた「理不尽」なものではない。自分自身の肉体にしてからが車内混雑の立派な構成物だし、そもそも、自分がその時間と空間に居合わせなければ不快感に出会うこともなかったという「理路に適った」ものだ。

つまり、「自分も含んだ社会を俯瞰的に観る」のが、あるべき社会観ではなかろうか。

「そんな視点はありえない、絵空事だ」というむきもあろう。ただ、人間以外の生物はたいがいそういう社会観を持って生きている。それが如実に現れている一つの例が「擬態」である。

例えばカレイは、自分の体の模様を海底の砂地にすっかりなじませて捕食者の目を欺くが、これは、

「自分の存在」
「自分の体の模様」
「環境の様相(砂地の模様)」
「他者の存在(捕食者の視線)」

以上の5つの実在を信じ、それを統合的に認知しうる能力、つまり「自分を含んだ社会を俯瞰的に観ずる」能力をカレイが保持している、あるいはカレイの祖先が保持し続けてきたことの証明に他ならない。

社会は自分自身も含んで初めて成立する。「自分を除いた社会」などありえない。そして、人間やその他の生物の多くが死を恐れる理由もそこにある。死とは、ひとつの生命体の消失による、社会全体の崩壊に他ならないからである。