「普通の国」への堕落

 集団的自衛権を行使する「普通の国」たる韓国は、アメリカのベトナム戦争に付き合って5千人の死者を出した。それは「国を守るための尊い犠牲」だったのだろうか、「属国が強いられた大量犬死」だったのだろうか。

「解釈の変更」が荒唐無稽なことは論を待たないが、それよりも重要なのは、「これ以上アメリカに付き従っていくことが本当に国益に適うことなのか」という判断であり、この問題こそ国民の総意を問うべきテーマだと思う。

本当に「アメリカに従属することこそが最上の自衛手段である」ことが明白ならば、いたずらに「解釈に固執」する勢力は確かに「無責任」だといえるかもしれない。しかし真相はまるで逆さまで、「アメリカに従属することこそが国難を招き入れる」のだろうと自分は考えている。

考慮すべきはアメリカが、太平洋で、朝鮮半島で、ベトナムで、中東で、アフガニスタンで、イラクで、飽くことなく戦争をし続けて来た本質的な理由だ。それを「民主主義と自由を守る使命に燃えていたから」と額面通り思い込んでいる人がいたら、おめでたいにもほどがある。

アメリカにとって戦争は、最も有効な「産業振興策」であり景気浮揚のための「公共事業」であり続けてきた。アメリカは軍産複合体で肥大した軍事力を代謝するために世界中で敵を作り喧嘩をふっかけをつづけ、自他国民(他国人は民間人も含む)の大量の人命を「消費」させて、国を保ち、発展させてきた。

肥大した国力・軍事力の捌け口を海外に求めるのは何も現代アメリカの専売特許ではない。イベリア半島イスラム教徒から奪還する過程で蓄えた国力と鍛え上げた軍事力を携え七つの海に乗り出したスペインやポルトガル、国内統一の余勢を駆って唐・天竺征服まで妄想したかつての日本がそうである。

このようにアメリカは、肥大したからだを戦争でせっせとダイエットしつつ、「健康維持」と「体力増強」に努めてきたのだが、近ごろは老化に加えダイエットのし過ぎでなんだかヨロヨロになってきた。そこで子分の日本に付き添い介護を要請してきたのが、今回の「集団的自衛権」騒ぎの発端である。

頭がねじれるぐらい考えるべきなのは「日本にはアメリカを付き添い介護する義理あるいはメリットがあるのか」ということだ。半分耄碌した保守爺さんのように「アングロサクソン様をお慕い申し上げていれば後生安心でございます」などと思考停止している場合ではない。

そのそもアメリカのような巨体患者を介護できるガラ(経済力・軍事力・人材力)なのか日本は、という視点も忘れてはならない。

「今回の一連の安保法制が合憲か違憲か」を、条文に照らし合わせて論理的に考えれば、そもそも個別的自衛権の発動どころか、自衛隊の存在からして明白に違憲だ。憲法9条を持ちながら自衛隊が存在してる現実を合理化するには、ほとんど頓智問答レベルのアクロバティックな論理が要る。

なぜ九条をアメリカが憲法に盛り込んだのかというと、彼らが太平洋の戦闘で体験した、日本軍の悪鬼めいた敢闘精神の恐怖が身に染みたからだ。日本人に軍隊を持たせるとロクなことにならない、日本人を従順にさせるには軍隊という牙を抜くしかないと、彼らが確信したからだ。

つまり、アメリカは猛き日本を鎮めるために、憲法を使って「去勢」したのだ。

終戦直後の腹立ちまぎれ、復讐含みで日本を去勢したまではよかったが、落ち着いて考えてみると、「ソ連や中国もやっかいだし、属国は属国なりに自分で国を守ってもらわにゃ面倒見切れんし、やっぱ軍隊要るわな」というわけで作らせたのが自衛隊(国家警察予備隊)だ。

つまり、アメリカの場当たり的、ご都合主義的な2つの矛盾する押しつけによって、「(法的には)在ってはならないはずの存在が(現実には)在る」という「異常事態」が日本で60年以上続いてきたのだ。

あそらく宗主国様たるアメリカは、属国たる日本がこの決定的な矛盾にこれほど長く深く苦しんできたことには全く頓着していない。もしかすると、日本国憲法は、そして9条は自分たちがつくったことすら忘れているかもしれない。(まさかと思うが・・・)

ひょっとすると、「まだ、あの古びた憲法を後生大事に守っているのかい?まったく日本人ってやつはクレイジーだな」ぐらいに思っているかもしれない。そして、「おいおい、あんたたちがおれたちに押しつけたんじゃないか」と言っても、たぶん聞く耳を持たない。

憲法9条自衛隊という相矛盾する現実状態はそのまま受け容れるべきものだ。いたずらに改憲を叫び、なんでもシロクロつけてすっきりしたがるのは、子供の精神構造だ」という内田樹氏流の言説も傾聴に値すると思う。ただ自分は現段階では少し違う考えを持っている。

自分の考えを端的にいうと「憲法自衛隊の存在を認め(あるいは禁止する条文を削除)、その活動範囲を個別的自衛権(具体的には自国領土保全)に限定する」というものだ。

これは、アメリカによる過去の「去勢(戦力不保持の規定)」と、現在の「介護要請(集団的自衛権の行使)」を、両方とも拒否するものだ。

つまり自分は「護憲」か「改憲」かといえば後者だが、この判断には「日本がアメリカと今後どう関わっていくか」という重大なジャッジが含まれているので、国民の総意あるいは多数決を根拠にすることが大前提になる。

いっときの権力者の意向によってどうとでも解釈が可能なものと位置付けるのは国家の最高法規たる憲法の価値を著しく貶めるものであり、さらに大きく言えば、法律という人類的知恵への冒涜でもある。

 この重大な冒涜に加え、さらに「アメリカ隷属の継続と拡大」という重大な国家方針(これを自分はまったく間違ったものだと考える)の決定を、ときの権力者とその取り巻きだけで推し進めている現況はとりわけ歪んだもので、この歪みは今後ますまず顕わになっていくだろう。