真らしき嘘、嘘らしき真

有名な言葉だがよく意味が解かっていない言葉が自分にはけっこうあって、その一つが徳川家康の「真らしき嘘はつくとも、嘘らしき真を語るべからず」という言葉だ。

これを小林秀雄は「人生には嘘とか真とか考えられたものがある訳ではない。嘘らしい言い方と真らしい言い方があるだけである。嘘らしく現れる真とは即ち嘘であり、真らしく表現された嘘とは即ち真である」と解しているが、これを読んで「ああ、そうだったのか」と納得できる人もそういまい。

この言葉が解しがたい理由の核心は、おそらく「真(まこと)」という語にある。ここで言っている「真」とは一体何か。それが明らかになれば、自ずと家康の言葉の意味もはっきりするだろう。

いくら読みなおしても文章の意味がうまくとれないとき、そこで使われている言葉の定義が揺らいでいることがある。同じ意味なのに箇所によって違う言葉をつかったり、概念がずれているのに同じ言葉で表現していると、読み手だけでなく書き手自らも頭が混濁していき、次第に文章はグダグダになっていく。

ここから敷衍したあまり自信がない仮説だが「真らしき嘘はつくとも、嘘らしき真を語るべからず」という言葉のうち、はじめの「真」と二番目の「真」は、意味が違うのではないだろうか。

おそらく初めの「真」は「真実」の謂いで、二番目の「真」は「事実」の謂いではなかろうか。

ここで再び「嘘らしく現れる真とは即ち嘘であり、真らしく表現された嘘とは即ち真である 」という小林秀雄の言葉を持ち出すと、「嘘らしく語られた事実とは即ち嘘であり、真実らしく表現された嘘とは本当である」ということになる。

「真実らしく表現された嘘とは本当である」とはどういう意味かというと、これはおそらく「源氏物語は嘘(フィクション)だが、そこで描かれている平安貴族の生態は真実である(真に迫っている)」というぐらいの意味だ。これは比較的わかりやすいと思う。

問題なのは「嘘らしく現れる真とは即ち嘘である」という言葉だ。この言葉は「嘘っぽく語られた事実とは即ち嘘だ」と解することができる。通常の感覚では、「事実」は嘘っぽく語ろうが本当っぽく語ろうが事実は事実であることには変わりはない、ということになろうが、じつはそうでもないのである。

たとえば「戦争は悲惨だ」という「事実」がある。これを社会の授業で習ったばかりの小学生が口にするのと、家族全員を失い自身も重い後遺症を背負った被災者が口にするのとでは、コンテンツの目方が違ってくる。この前者の如何ともしがたい軽さを「嘘」と言い換えることができるのではないか。

では、「事実」は語る人や語り口によって嘘にも本当にもなるのだろうか。そうである。

もっとも「1+1=2」のような客観性の純度が高い数式や科学的法則は、中学生が口にしようがノーベル賞学者が語ろうが本当であることは揺らがないが、それ以外はほとんど全て、と言っていいほどコンテンツは語る人や語り方に決定的な影響を受ける。

徳川家康の「真らしき嘘はつくとも、嘘らしき真を語るべからず」は、このような「真に迫った面白いお話はけっこうだが、事実は語る人を選ぶから気をつけよ」という意味の言葉なのかもしれない。

・・がしかし、ぜんぜん違う意味の言葉のような気もする。

そもそもかの峻厳なリアリストとして戦国の世を生き抜いた徳川家康が、自分が今してきたような、しちめんどくさい深読みが必要な、思わせぶりな、謎めいた言葉を吐くだろうか。この言葉には、普段使いの利く、もっと単純率直な意味があるような気もする。

以前、貝塚茂樹訳の論語を読んで聖人の箴言集のように思っていた言葉が実は弟子たちへの懇切丁寧な具体的なアドバイスだったことを知って驚いたことがある。聖人を俗人に引きづり降ろしてカタルシスを得る趣味は自分には無いが、説得力のあるメッセージを言えない人の周りに人が集まる道理はあるまい。

徳川家康の「真らしき嘘はつくとも、嘘らしき真を語るべからず」は、部下への訓戒あるいは命令だったと、ひとまず仮定してみる。

この言葉は、自分への注進(事件・事故・状況の報告)のありかたを部下たちに諭したもので、まず家康が肯定している「真らしき嘘」とは、希望を生じさせたりモチベーションを高めたりする作り話のことだ(と考えてみる)。

たとえば、開戦を目の前にして「雁の群れが東の空を飛んでいました。これは吉兆です。お味方の勝利疑いなし!」といった類の士気を鼓舞する言葉は「嘘」だが、それなりの現実的な価値があると家康は認めていた(のではないか)。

一方、「嘘らしき真は語るべからず」とは、戦闘中に次々と家康の陣屋に駆け込んでくる伝令兵が、本当の情報を伝えているのにもかかわらず 、どこか自信なさげだったり、口調に信用がおけないものを感じてしまうと、自分が正確な判断がしにくくなるから気をつけてほしい、という意味だ(と思う)。

要するに家康は「内容が嘘でも本当でも、どっちも本当に聞こえるようにしゃべってほしい」と言っているのではないだろうか。嘘は嘘っぽくしゃべっては嘘の用はなさないし、一方、本当のことを嘘っぽくしゃべると本当である強みが消減する。

これをもっとつづめて言うと「嘘っぽいしゃべり(小林秀雄流にいえば、嘘らしい言い方)はするな」ということになる。

以上の自分の家康の言葉をめぐる「珍説」は、はたして嘘だろうか本当だろうか。

自分で出した結論に則していえば、それが嘘だろうが本当だろうが、真実のように読んだ人に感じられていれば成功ということになるのだが、どうだろうか。