「火花」を読まずして語る又吉評

 以前、若いお笑い芸人を描いたマンガがあったが、なんとも苦しかったところは、劇中で出てくるネタがどうにもつまらなかったところだ。

又吉氏は本職だから劇中に出てくるネタもおそらく面白いのだろう(載っていれば)。これは時代劇で言えば、「見せ場」である立ち回りにキレがあるようなもので、作品の重要な強みになっていたはずだ(載っていれば)。

お笑い芸人は、クラスの人気者タイプか、クラスのいじめられっ子タイプかに二極化するもので、又吉氏はどちらかといえば後者だと思うが、小説家はおそらくどちらにも属さない傍観者タイプが多いと思われ、もしこれが偏見でなければ、そういう意味でも、又吉氏は小説家としては風変わりな存在だと思う。

現代でもまだ「小説家」という職種にはメインカルチャーのオーラがあり、これはお笑いというサブカルチャーの世界では重荷にこそなれプラスにはならない。これはメインカルチャーの虚飾性や欺瞞性を相対化するのがサブカルチャーの役割の一端である以上、避けられない現実だ。

北野武氏はそれがわかっていたから、メインカルチャーである映画界に進出して以降、「北野武」と「ビートたけし」というダブルネームを巧妙に使い分けてきたのである。

処女作で実体験を基にしたすぐれた物語を書いた先行事例として、いつも自分が思い出すのは「戦艦大和ノ最期」をものした吉田満氏である。

戦艦大和から生還した269名の兵士のうち、あのような大ドラマを描き得たのは吉田氏ただ一人だった。戦艦大和は3,000人の命と引き換えに「戦艦大和ノ最期」という大叙事詩を残したのだ、というある作家の評も、あながち大げさではない。

吉田満氏の見識や教養や表現力は稀有なもので、その気になれば職業作家に列することもおそらくできただろう。

しかしそれをしなかったのは(あるいはできなかったのは)、あまりに真実あるいは現実の純度の高いすぐれた作品を書いた後では、どういう種類の作り話も書く気にはならないだろうし、作ってはならないとも思っていたからではないだろうか。 

今回の又吉氏の受賞作品にどの程度実体験が含まれているのか知らないが、その事実の純度が高ければ高いほど次作以降のレベル維持は難しくなり、低ければ低いほど漫才のネタを発想するがごとく秀作を量産することができると思う。そしてその純度は又吉氏自身しかしらない。おそらく彼には、自分が今後、職業作家としてどれだけやれるか、ある程度メドがついているのではなかろうか。

又吉氏が今後どんな作風を模索していくのか知らないが、ひとつの方向性として夏目漱石が「吾輩は猫である」で実現したような、社会や人生の本質を照射する高級なユーモア小説という道があると思う。

現在の日本の文学界において、これを担いうる太才は自分の知る限り一人もいない。いつまでも業界ネタでもないと思うし、この地位は近代文学においても巨大な空席になっているので、そこを目指せばいいのではないか、と思ったりもする。