絶滅危惧種としての言語

 先日、新聞に志賀直哉が晩年に書き残した文章が発見されたという記事が載っていた。その文章には、自分が死んだあと片言隻句でも残って入れると嬉しい、あるいは光栄だ、という主旨のこと書いてあったらしい。

たしか志賀直哉は、終戦直後、日本語を廃止してフランス語にすればいい、という主旨の発言をしていた、もし彼の主張通り日本の公用語がフランス語になっていたら、彼の日本語で書かれた小説の数々もいずれは誰も読めなくなり、歴史の藻屑となって消え失せたろうし、もとよりその覚悟があっての主張だったと思う。

そういうことを言っていた彼が、晩年の文章において自分が日本語で書いた言葉の不滅を願っていたということは、かつての持論を取り下げたということに他ならないだろう。

終戦時は、フランス語を公用語にするとまではいかなくても、カナや漢字を廃止して日本語を全面的にローマ字にしようという政府の方針があった。以前存在していた「当用漢字」という言葉は、日本語表記が全面的にローマ字になるまでの「当座用いる漢字」という意味だった。

言葉は、生き物のように時代の流れの中で徐々にあるいは突然変異的に変貌するものである一方、たとえば政治情勢のような人間の恣意によって徹底的に壊される脆弱さも備えている。

今、見るに忍びない痛ましさにまみれているのが中国の漢字で、あの極端に簡略化された文字で教育された子どもたちは、いずれ自国の歴史が産み出してきた数々の古典文学を読むこともできなくなり、深刻な歴史や伝統の分断が、現出することになる。(もっともそれこそが現中国共産党すなわち政府の狙いである)

時代の移り変わりによって、言葉が変貌したり消えたり生まれたりするのは自然なことで、そのダイナミズムが言葉の活力でもあるのだが、少数の人間の恣意や、時の政治情勢によって言葉が人工的にいじられるのは甘受すべきではない。そういったケースにおいては、言葉は、あたかも絶滅危惧種のような細心の保護をすべき対象になる。