「大きな容れ物」について

 マザー・テレサ的な人間の偉大さあるいは異様さは、自我や我欲で充満しているのがデフォルトの人間たちの群れに、ひとり空っぽの容器のように存在していたところにある。まるで真空地帯に猛烈に流れ込む空気のように、巨万の人間がその容器に吸い寄せられていった。

マザーテレサ的な人間」の容器は「宗教」でできており、その素材の本質を言えば「言葉」である。つまり彼・彼女たちは、宗教を構成している言葉によって、偉大で異様な巨大な容器を造り、その中に人々をかくまっていたのだ。

「大きな容れ物に巨万の人間たちをいれる」というイメージは、「大きな舟に人々を載せる」という大乗仏教の思想にも通底するものがある。容れ物の中には何もない。ただひたすらに巨大なスペースがあるだけだ。しかし、そこに集う小我の群れは、ただ容れ物の中に自分が在るというだけで安らぎを感じることができる。

「大きな容れ物」を用意するのは人間ではなく、仏である。しかし仏像が口をきくわけではないから、そのイメージは多くの場合、「僧侶」という生身の人間が語る言葉によって形づくられる。しかし、言葉の効果はそれを語る人間の在り方に大きな影響を受けるから、容れ物を語る人間は、大いなる空間を感じさせる人格であることが求められる。

昨日、佐藤初女さん(故人)という人のインタビュー番組を録画で見た。この人は青森県にある「森のイスキア」というキリスト教版の駆け込み寺とでも称すべき施設を主宰していたが、ここで彼女をがしていることは、訪れた人に食事を食べさせることと会話を交わすことだけだという。

食事と会話だけなら、どんな人間だって日常的にしていることで、ただそれをするために、多くの人がここを訪れてきたのは、食事と会話という媒介をとおして、佐藤さんの心にある大きな空間にかくまわれたい、という望みがあればこそだと思う。

インタビューに答える佐藤さんは、意外に、と感じるほど饒舌だった。ただ、その言葉は、自らの中にある「大きな容れ物」の存在を表現し、顕在化するにあたり、最低限必要な語量であるともいえるのかもしれない。