リアリズムについて

 コローの風景画は、もし現場の写真と見比べれば、なんでこんな何の変哲もない景色を彼は描く気になったのかわからないような場所が多くモチーフになっていると思う。しかしその何の変哲もない場所が、彼の観察を経て、彼の筆で描かれることによって、たちまちのうちに名画のモチーフに昇華する。

リアリズム絵画は、写真というお手本になるたけ近づくという目的が明確なだけに、一定以上の腕がある画家にとっては与し易いジャンルだともいえる。「まるで写真のような絵だ」という素人の無邪気な賞賛を得ることにおいていも効率的だ。

しかし人間の目や腕を経て描くのであれば、写真以上のあるいは写真では到底表現できない何ものかがその作品に顕れていなくては本当ではないだろう。


長い年月を経て、多くの人々に見て見て見抜かれて、それでも生き残っている芸術作品には、決して機械的な転写ではなしえない、人間の肉体や知性や感性や心を通してしか表現できないなにものかが現れている。話が混乱するようだが、すぐれた写真作品にもそのなにものかが顕れている。

 もちろん自分はリアリズム作品を否定する者ではない。ただ、凡百のリアリズム作家が目指している写真との類似感と、すぐれたリアリズム作家が描写する現実の空気感や官能的な触感とは、まるで似ても似つかない、ということがいいたいのだ。

リアリズムというものは、実物や写真をじろじろ眺めて、見えたままをそのままを写し取ること、ではない。すぐれたリアリズム作品とは、見ようともせずに見ているうちに、ものの形状や色彩、質感に関する抽象的な感情がたまりにたまり、そのエネルギーを知性でコントロールしながら具体像にアウトプットするものだ。

そして、その造形はフィジカルな「腕の冴え」、悪い言葉をつかえば「小手先の技術」が支えている。つまり、リアリズム絵画は「感情」「知性」「肉体」が一体にならないとすぐれた作品にならず、この事情は、華やかな舞台を内面の充実と地道な訓練が支えている楽器の演奏に、じつは近い。

ただ、その「小手先の技術」をその言葉どおり枝葉末節なものだと思い込めば、重大なことを釣り落とすだろう。それは楽器の演奏が、小手先の技術にとどまっている限り鑑賞する人を真に感動させることができない事情と同じである。

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