つじつまのあわなさについて

進撃の巨人」というタイトルのマンガだかアニメだかがいま人気らしい。「の」の遣い方が奇妙で、一度きいたら忘れられないインパクトがある。

実はこのような「の」ヘンな遣い方は先例がけっこうある。自分が思いつくかぎりでも、梅棹忠夫の著作「文明の生態史観」や、三島由紀夫の小説「豊穣の海」や、川端康成ノーベル賞受賞講演「美しい日本の私」や、戦時中に行われた文学者の座談会「近代の超克」などがある。

これは非論理性を隠し味にして詩的風韻をつくりあげるという、おそらく日本語特有の修辞上のテクニックであるが、困るのはこれを外国語に訳すときである。

たとえば「進撃の巨人」というタイトルを外国語に訳すとすれば、「進撃している巨人」あるいは「巨人の進撃」などといった別の概念に組み換える必要がある。ただ、これで意味はすっきりするが、そのかわり「進撃の巨人」という原典が醸し出していた詩的風韻は致命的に損なわれてしまう。

思えば、日本語の詩的風韻は、多くの場合、その非論理的な違和感つまり「つじつまが合わないヘンな感じ」から生まれるのではないか。かつて丸谷才一小林秀雄の文章の非論理性を糾弾したが、丸谷の勘違いは、小林秀雄の文章を論説や論文だと認識していたところにある。

小林秀雄の文章は、書かれている内容を論理的に了解するより、文章全体の姿やそのリズムやメロディを味わってこそ、その滋養を享受することができる性質のものだ。つまりその本質は論文ではなく詩なのである。

ストレートに内容を表現するのに飽きたらずレトリックを操ってヒネりを入れている文章を、逆向きにヒネり真っ直ぐにして理解してもあまり豊かな意義はない。丸谷才一は英文学に文学的出自を持つから、日本人の非論理性への寛容さ(念のためいうと、日本語が非論理的だというのではない)に我慢がならず、小林秀雄をその槍玉に上げたくなったのかもしれない。

一方、こういった「非論理性への寛容」は負の側面もある。かつて「言語明瞭、意味不明瞭」と揶揄された総理大臣がいた。施政者が、怪しげな、子供じみた、つじつまが合わないお座なりの言い訳を国会の場でたれ流し、それを人々が責めるよりまず笑ったのは、そういった空虚なおしゃべりをまるで一編の詩の朗読のように聞き流すことができる言語的寛容を、社会が共有していればこそだろう。

なお、仕事関係でもたまに、つじつまのあわない空虚なおしゃべりを、とうとうと倦まずたゆまず繰り広げる人にお目にかかるが、こういう話を1分間でもまともに聞いてはいられない自分は、もはや日本人の伝統的言語感性を失ってしまったということなのかもしれない。いや、これはまじめに。