★呪いの時代 (内田樹) 【抜き書き】

僕たちは誰でも自分の知っていることを過大評価し、自分の知らないことを過小評価する傾向にあります。

ネット上では相手を傷つける能力、相手を沈黙に追い込む能力が、ほとんどそれだけが競われています。もっとも少ない言葉で、もっとも効果的に他者を傷つけることができる人間が英雄視される。

現実を変えようと叫んでいるときに、自分がものを壊しているのか、作り出しているのかを吟味する習慣を持たない人は、ほとんどの場合「壊す」ことしかしない。

他者の話を聞かない、自分の意見だけを言い募り、どれほど反証が示されても自説を絶対に撤回しないという風儀のことを「ディベート」と呼ぶのだということが僕たちの社会の常識になりました。

誰でも「文学とは何か」というような抽象論をそれらしく語ることはできます。「こんなものは文学じゃない」と斬って捨てることもできます。でも、「これが私の作品です。この作品で私という人間を判断してくださって結構です」と言い切ることはなかなかできません。

引きこもりというのは、自分に対して低い評価を与える外部を遮断して、「評価されない立場」に逃げ込むというソリューションです。転職は離職の繰り返しや、「自分探しの旅」も自己評価と釣り合うような格付けをしてくれる外部がこの世界のどこかにあるはずだという根拠のない信憑に導かれてのものです。

子供たちがその「無限の可能性」を開花させるためには、自分がどれほど無知で非力であるか知る必要があります。

教育の場では、「君には無限の可能性がある」という言明と、「君には有限の資源しか与えられていない」という言明は、同時に告げられなければならない。

呪いを解除する方法は、祝福しかありません。自分の弱さや愚かさや邪悪さを含めて、自分を受け入れ、自分を抱きしめ、自分を愛すること。僕たちの時代にこれほど利己的で攻撃的なふるまいが増えたのは、人々が「自分をあまりに愛しているから」ではありません。自分を愛するということがどういうことかを忘れてしまったせいです。僕たちはまず、「自分を愛する」というのがどういうことかを思い出すところから始めるしかないと僕は思います。

司馬遼太郎のこと)一厘五銭の赤紙で徴兵され死地を経験した彼は、人の生き死にを記号的に処理することにたいして激しい嫌悪を持っていた。ですから、政治的立場の違いや、藩ごとに利害の違いがあったとしても、「まず人間を見てから」という竜馬や勝海舟西郷隆盛のありように共感したのだと思います。

「一誠」とは、その人のたたずまい、あるいは他者にたいして赤裸のおのれをさらけだしていく無防備さのことです。一誠というのは「一」という限定的な数詞が示すように、徹頭徹尾固有の、具体的な、単独者によってしか引き受けることのできない人間的資質のことだと僕は思います。

写生的列挙の美点は、詳細に記述すればするほど、人間の行う記述によっては「なまもの」をくみつくすことができないという不能を覚知できることです。「記述する」ことによって、僕たちは何かを確定し、獲得し、固定するのではなく、むしろ記述すればするほど記述の対象が記述しきれないほどの奥行きと広がりを持つものであることを知る。対象はそのつど記述から離れていく。千万語を尽くしても、眼前の花一輪も写実的に写し取ることができない。写生が僕たちに教えるのは、「なまもの」の無限性、開放性と、それに対する人間の記号化能力の恐るべき貧しさです。

写生には終わりがはない。人間的現実に記述しきったということは起こらない。生はくみつくすことができない。それゆえ、僕たちは記述すること、写生すること、列挙することを終わりなく続けるしかない。それが祝福ということの本義だろうと僕は思います。

アメリカの場合、まず「あるべき国」についての物語があり、その条件に同意した人々をメンバーとして受け入れた。なぜ、この国が存在し、この国の歴史的使命は何かということについて「原点」における契約書が存在する、という物語になっている。こんな奇妙な国はアメリカの他には存在しません。(レーニンの時代のソ連がそうでしたが、すぐに崩壊してふつうの国民国家になってしまいました。)

もし、平和憲法の理念を統治原理として採用したのであるならば、日本人は「防共の砦」として列島の再軍備の要請がアメリカからなされたときに、「それは国是に反する」というロジックで拒否することもできたはずです。でも、そんなことはしなかった。平和憲法はそのままにしておき、再軍備も受け入れた。ということは、憲法に書かれている統治原理よりもさらに上位に「自分で与えた憲法の理念と反する命令が下せるほど強大な国には従属するしかない」という経験則が存在したということです。それが日本の国是なのです。

相手は次に打ってくる一手に最適対応するべく、全神経を集中すること、それを武道では「居着き」と言います。物理的には、足の裏が地面に張り付いて身動きならない状態ですが、居着くとは構造的に「負ける」ことです。居着いた相手は活殺自在である、そう言われます。端的に言えば、武道とはどちらが相手を「居着かせる」ことができるかを競っている。ですから、武道的観点から言うと、「問題に正解しなければならない」という発想をする人は、構造的に敗者であるということになります。


複数の人間が同一の論点について語り合うということは、本来その論件についての理解を深め、それまでそれら論者の誰も気づかなかったような新しい視点を発見するためのものでしょう。誰か一人正解を述べていて、残る全員は誤答をしているという結論はあまりに貧しい。それならわざわざ集まって対話をする必要がない。

母語運用の自由に支えられて書いた僕の文章は、すぐれた翻訳者を得れば、だいたいのニュアンスを保持したまま、英語やフランス語に置き換えることができるはずです。(僕はフランス語に訳せるかどうかを基準にして、自分の書く文章の論理性を自己点検しています。)

英語教育に関しては、一方で英語教育の充実を謳いながら、他方では英語ができなくても困らない状況を一生懸命つくりだしているということです。右手でつくったものを左手で壊している。では、いったいなぜ僕たちは(おそらく無意識に)「左手で壊す」ようなことをしているのか。大変危険な仮説ですけれど、ぼくはそれを「攘夷」という心性が日本人の魂の古層にいまも生々しく息づいているからではないかと思っています。


韓国では、漢字の放棄は英語の採用によって代補されています。だから高等教育を英語で受けることが社会的向上の条件になっている。・・・それを国際か進んでいるということもできるでしょう。けれどもそれは、自国に蓄積された知的伝統へのアクセス権の放棄とのトレードオフなのです。それが有利な取り引きだったのかどうか、まだ判断するのは早すぎると僕は思います。
 
人間の本当の知的能力は、母語の運用において際だちます。でも、母語についてはどういうわけか人々は「みんな同じようにできる」と思いこんでいる。だから母語運用能力の巧拙や適否について話題にするということはしません。

つまり婚活ビジネスというものは、一度でも「赤い糸に結ばれた世界でただ一人の人がいる」というイデオロギーを内面化してしまった人間に対して、生涯にわたって、結婚に関わるすべての活動に課金できると言うシステムなわけです。まさにアクマのような狡知というべきでありましょう。

「あなただってそれほど卓越したところのない、ふつうの人間なんだから、あれこれわがまま言わずに、このあたりで我慢しなさい」と、その人の標準性、凡庸性、を強調する。そうやって、若者たちを「普通の市民」の枠の中に押し込んでいく。「あなたは普通の人である」ゆえに「普通の人と結婚すればいい」、そうすれば「普通の幸福が得られるであろう」というあまり夢のないワーディングで結婚に追い込む訳です。そして、決断を嫌がる若者に大人たちが最後にたたき込むのは「結婚なんか、誰としたって、まあ、同じようなものだよ」という叡智の言葉です。

結婚というのは、配偶者の双方が卓越した人間的資質をもって、それを絶えず100%発揮していなければうまく機能しないようなストレスフルな制度ではありません。人格的にすぐれた二人が心から愛し合い、尊敬しあってなければ、幸福な結婚ができないというような苛酷な条件を課していたら、人間は遠い昔に絶滅していたでしょう。

結婚が必要としているのは、「他者と共生する力」です。よく理解もできないし、共感もできない他人と、それにもかかわらず生活をともにし、支え合い、慰め合うことができる。その能力は人間が共同体を営んでいくときの基礎的な能力の通じていると思います。

草食系男子が採用している「弱くてかわいい」ペルソナというのは、たしかに多くの場合に、有効だと思います。とりわけ今の日本のようにあ「弱者であることの利益」がつよく意識されている社会では。でも当たり前ながら、「弱くてかわいい」だけで対応できる状況は限られています。対応できないとき、彼らはしばしばまったく似ても似つかない別の凶暴で攻撃的なペルソナに切り替わってしまう。この二極のペルソナがあまりに隔絶しているので、人格の統合ができない。まるで別人のようになる。

僕は、自分を許すことができる人間だけが他人を許せると考えています。

大人になるというのは、だんだん人間が複雑になるということです。表情も複雑になるし、感情も複雑になる。人格の層の厚みが増す。少年のような無垢さがあり、青年のような客気がみなぎり、老人のような涼しい諦観があり・・というように同一人物中にさまざまな人格がきびすを返して混在しているというのが大人の実状です。

共同体というのは、その成員の誰かが破産したり、失業したり、病気になったり、狂ったりしたときに、それでもその人を受け入れ、保護し、支援し、フルメンバーとして条件を回復できる日を気長に待つとうセーフティネットのことです。成員条件を欠く者でも成員として含むことができるコミュニティーでなければ、その語の厳密な意味でのコミュニティとはいえないと思います。

家族というものは、メンバー中もっとも社会的能力の低いものが自尊感情を持ち、幸福で文化的な生活を享受できるようにするための支援システムなのです。

贈り物というのは、それ自体に価値があることが自明であるようなものではないのです。贈り物は受け取った側が自力で意味を補填しないと贈り物にならない。挨拶を送った側が返礼がないと傷つくのもそれで説明できます。挨拶を返さない人は「あなたが発した空気の振動にはなんの価値もない」という判定をくだした。僕たちはそのことに傷つくのです。

むき出しの貨幣を贈るといのは「私からの贈り物の価値はすでに決定済みであり、あなたには決定権がない」ということです。人間が持つ能力は、能力それ自体によってではなく、ましてや能力の所有者にもたらした利益によってではなく、その天賦の贈り物に対してどのような返礼をなしたかによって査定される。

自分にとっていやなことが起こりそうな気配を僕はずいぶん手前で感知することができます。人間の場合でも、集団の場合でも、あるいはある種の制度やルールの場合でも、言葉一つの場合でも、わずかな身体接触である場合でも、「厭だ厭だ、これは絶対に我慢できない」というアラームがけたたましく鳴り響く。もう、頭蓋が割れるほどに耐え難い音量で。そうなると、もうとにかくアラームが鳴り止むところまで、その「厭なもの」から遠ざかるしかない。こっちだって必死です。

アラームが頻繁になる状態に人間は長くは耐えられない。だから、どこかでアラームを切ってしまう。そのとき「とんでもないこと」が起きる(ことがある)。気をつけましょう。なるほど。

死者に語りかける供養の言葉は、それを聴く気のなかった人たちにさえ届く。

僕たちが決して聞き落とさないのは「これは私宛のパーソナルなメッセージだ」と確信するものだからです。・・・人間はいつでも「自分についての言及」にたいしてのセンサーだけは最大化させています。

僕は悪口よりも敬意の方が遠くまで届くと思います。受信者に対する敬意を含んでいるメッセージがいちばん遠くまで届く。僕たちは自分に「深い敬意を含むメッセージ」に対しては驚くほど敏感に反応します。そのコンテンツがたとえ理解不能であろうとも、僕たちは、「自分に向けられた敬意」を決して見落とさない。人間は自分に向けられた愛情を見落とすことはありますけれども、自分に対する敬意を見落とすことはありません。

リーダビリティを構成する条件は、表現者の受信者に対する敬意です。「あなたの知性を以てすれば、私が言いたいことを正しく理解できるはずである」という受信者の知性にたいする信頼の上に築かれた言葉は読者にまっすぐ過たずに届く。

神が人間を創造したのだとすれば、人間は神の威徳と全能にふさわしい存在でなければならない。「神の威徳と全能にふさわしい存在」とはどのようなものでしょうか。これについてはレヴィナスはこう書いています。「神の支援抜きで、地上に公正で平和な社会を構築しうるもの」それが神が創造するだけの甲斐のある人間、神でなければ創造できない人間です。

人はどれほどわかりにくいメッセージであっても、そこに自分に対する敬意が含まれているならば、最大限の注意をそこに向け、聞き取り、理解しようと努める。だから、もしあなたが飲み込むことがむずかしいメッセージを誰かに届けようと願うなら、深い敬意を込めてそれを発信しなさい。それがコミュニケーションにかかわるユダヤキリスト教の太古的な叡智の一つではないかと僕は思います。

僕たちはどれほど烈しく批判されても、それによって、その批判が整合を持つように自分自身の判断枠組みを作り替えようとは思いません。超人的な克己心のある人だったら、批判されればされるほど自分の知的限界について反省的になるということがあるかもしれません。でもふつうの人間にはそんなことはできない。だからもし、ほんとうはその人の知的な枠組みをを根底から作り替えようと望むなら、その人の知性を信頼するしかない。その人が自ら進んで自己超克を試みる可能性を当てにするしかない。

原子力というのはいわば「荒ぶる神」である。だとすれば原子力テクノロジーとは、その「荒ぶる神」の「祀り方」にかかわる技術的な問題である。そうである以上、原子力はそれぞれの社会において、そこに盤踞する「神霊的」なもののメタファーに即して語られるはずである。

原子力は二十世紀に登場した「荒ぶる神」である。そうである以上、欧米における原子力テクノロジーユダヤキリスト教の祭儀と本質的な同型性を持つことがあっても少しも怪しむに足りない。神殿を造り、神官をはべらせ、儀礼を行い、聖典を整える。そう考えてヨーロッパの原発を思い浮かべると、これが本質的には「神殿」を擬して建てられたものであることがわかる。中央には「神殿」としての原子炉があり、それに仕えることを本務とする「神官」たちの居所がそれを同心円に囲んでいる。周囲何十キロかは「神域」であるから、一般人は「神威」を畏れて、目を伏せ、肌を覆い、禁忌にふれないための備えをせずには近づくことは許されない。「神」は爆発的なエネルギーを人々にもたらすけれど、その神意は計りがたく、いつ雷撃や噴火を以て人々を罰するかもしれない。

日本人は、ヨーロッパ人とは全く違う仕方で原子力にかかわった。最初それは広島長崎への原爆投下という形で日本人を襲った。でもそれは「神の火」ではなく、「アメリカの火」であった。だから日本人は神ではなく、アメリカを拝んだ。アメリカを拝めば原子力の怒りを鎮めることができると考えたのである。それが日米安保条約に日本人が託した霊的機能立ったと思う。

日本人は原子力が余りに怖かったので、「原子力は所詮金儲けの道具にすぎないという嘘」を採用したのである。原発の設備をあれほど粗雑に作ったのは、原子力に対する恐怖心をそうやってごまかしたからなのである。「こんなものいくら粗雑につくっても抵抗しやしないんだよ」と蹴ったり、唾を吐きかけたりして「強がって」みせていたのである。

原子力についてお、そもそも設営のときに、伝来の古法に則って、呪鎮の儀を執り行うべきだったと私は思う。盛り土をして、原子炉を土中に置くのである。塚に草が茂り、桜が咲き、鳥がさえずるような広々とした場の下に原発を安置する。そこには神社仏閣を勧請する。「原発神社」。そして、桜が咲くころには地域の人を集めて「原発祭り」を挙行する。荒ぶる神がとりあえずは「よきこと」だけをなし、恐るべき力の暴発を抑制してくれていることを感謝するのである。わたしはふざけてこんなことを言っているのではない。日本人はこういうやり方をするときにいちばん「真剣」になるからである。

「死者」とは「存在するとは別の仕方で」生きている人間に関与するもののことであり、死者を正しく祀らないと「祟りをなす」という信憑を持たない集団は世界にひとつも存在しない。もし墓所も持たず、聖地も寺院もなく、死者についての神話も語り伝えず、誰かが死んでも葬儀をしない社会集団というものがどこかにあるなら是非教えてほしい。

人間は喪の儀礼をなす。それが人間の定義である。

人間が一定数以上すむ場所には、必ず霊的なセンターを置き、「存在しないもの」にたいする配慮を覚醒させ続けることは、人類学的には抗命を許されない命令なのである。

原子力に政治プロセスが関与するのは、原子力開発技術がある種の「外交カード」たりうるからである。日本が潜在的に核開発技術を持っているということは、国際社会におけるある種の威信として使える。

リスクを低く見積もれば原発ほどクリーンなエネルギーはない。だがいったんリスクコントロールに失敗すれば、悪くすると国土の一部が半永久的に居住不能になる。故郷を失った人々にたいする補償と、その国土が生み出すはずだった国富を計算した場合に、「火力よりも原発の方がこれだけ安いです」とそろばんをはじいて見せた金額など何十年分積み上げても「焼け石に水」である。

私たちが共同体として生きてゆくために必須の資源を「社会的共通資本」と呼ぶ。大気、海洋、森林、河川、といった「自然資源」、交通、通信、上下水道、電力といった「社会的インフラストラクチャー」、司法、医療、教育といった「制度資本」がそれに当たる。これらはどのようなものであれ、政治イデオロギーやマーケットに委ねてはならない。

一都市が機能停止すると、国家全体が機能を停止するようなシステム設計がされているとすれば、それは制度設計そのものが間違っているということになる。東京がシステムダウンしても、列島全体としては「東京抜き」でも社会システムが継続できるようにシステムは設計されるべきである。リスクヘッジとはそういうものだ。

みんなが同じ方向を向いて進む断崖があれば、全員ばたばたと墜落死する。そのとき、さしたる理由もなく、「オレはそっちの方にいきたくないね」と別行動をとる個体が一定数いれば、集団は全滅を回避できる。生物学的多様性というのはそういうことである。システムの適所に「付和雷同しないもの」をつねに一定数確保しておくこと、それは「システムクラッシュの回避」という点において必須の配慮なのである。

私たちが知っているすべての恐怖譚では「リスクの切迫を信じて生き方を変えたもの」だけが生き残り、「リスクを過小評価して平時のままでいること」を選んだものは大変不幸な目に遭う。これはある種の人類学的な教訓と見なすべきだろう。それは一言で言い現せば「リスクを過大評価することによって失うもの」と「リスクを過小評価することによって失うもの」は比較を絶している、ということである。

TPPは「人間は自己利益を最大化するように行動する」という人間観の上に構築されている。・・「今がよければそれでよし、長期的に見て安定的に自己利益に資するかどうかについては気にしない」という朝三暮四型の知性を前提にしたシステムである。言い換えれば、市場に国産品より一円でも安い外国製品があれば、消費者は後先考えずに、迷わずそちらを買う、という人間観である。自国産業の育成なんて知ったことではない。一円でも安いものを買うのが消費者の権利であり、かつ義務であると。自分の国の農業が亡びても、自分の財布が潤うなら、それでいい。それが人間の天然自然の姿である、と。そういう人間たちばかりで市場は構成されているという前提がないと、TPPの言う「国際競争力」という概念は意味をなさない。

人間に個性があるとすれば、それはその人に「金では動かない仕方」において端緒に示される。

私たちがもし幸運にも破局的事態を生き延びることがあったとしたら、私たちはその都度「なぜ私は生き残ったのか」と自問しなければならない。「他ならぬ私が生き残ったことには理由がなければすまされない」という断定は誇大妄想でもオカルトでもなく、人間的意味を「これから」構築するための必須条件なのである。

リスク対応は十分であった、と政府と東電と原子力工学者たちは言う。たしかに、その通りなのかもしれない。だが「デインジャー対応」という発想は彼らにはなかった。「デインジャー対応」能力というのは事故前の福島原発を見て、「なんだか厭な感じがする」能力のことである。

弁慶の武勲は何より白紙を朗々と読み上げた点に存した。これはひとつの異能である。勧進帳を読み上げているときの弁慶は、東大寺建立のための重源上人により北陸道に派遣された山伏になりきっている。この弁慶の憑依力・物語構成力によって、安宅の関には「そこに存在しないもの」が幻想的に出来する。この幻想的に構成された物語が、現実の災厄の出来を抑止する。

科学性というのは端的に言えば「世界の成り立ちについてあらゆる理説には賞味期限があり、かつそれが適用される範囲は限定されている」というはらのくくり方のことである。言い換えれば、自分の使える知性の道具の有限性、自分が準拠している度量衡の恣意性、自分が事象を考量するときに利用する計測機器の精度の低さについての自覚のことである。さらににべもない言い方をすれば、「自分のバカさ加減」についての自覚のことである。

自説の正しさを確信している人間は、説明を好まない。「周知のように」とか「いうまでもないことだが」というようなフレーズを瀕用するのはこのたぐいである。一方、自説の正しさの賛同者をひとりでも増やそうとする人間は情理を尽くして語る。・・・それができるのは、その人が言論の行き交う場の判定力を信頼しているからである。そこにいる聞き手の知性を信頼しているからである。聞き手の判断力に敬意を抱いているからである。「木で鼻をくくったような説明」が私たちを不快にさせるのは、そこに述べられていることが間違っているからではない。そおに聞き手の知性や判断力に対する信頼と敬意の痕跡を見て取ることができないからである。

「わたしひとりが真理を語っている」という人間にその命題の真理性ゆえに言論の場を独占することを許せば、彼以外のすべての人々の知性はゆっくりと鈍磨していく。だから、真理を語る少数者がときどき出現して言論を独占するシステムよりも、できるだけ多くの人間が自主的に知的パフォーマンスの向上をめざすように設計されたシステムの方が、「私」が幸福になる確率は高い。

歴史は「あらゆる臆断を排し、完全な真理に到達した」と宣言するものがもっとも無慈悲な抑圧者・処刑者になるという事実を教えてくれている。