★走ることについて語るときに僕の語ること(村上春樹) 【抜き書き】

もっと書き続けられそうなところで思い切って筆を置く。そうすれば翌日の作業のとりかかりが楽になる。継続すること。リズムを断ち切らないこと。長期的な作業にとってはそれが重要だ。いったんリズムが設定されてしまえば、あとはなんとでもなる。しかし、弾み車が一定の速度で確実に回り始めるまでは、継続についてどんなに気を使っても使いすぎることはない。

僕は、そんな様々なありきたりの出来事の堆積の末に、今ここにいる。

発行部数や、文学賞や、批評の良し悪しは達成のひとつの目安になるかもしれないが、本質的な問題とは言えない。書いたものが、自分の設定した基準に到達できているかいないかというのが何よりも重要になってくるし、それは、簡単に言い訳のきかないことだ。他人に対しては何とでも適当に説明できるだろう。しかし自分自身の心をごまかすことはできない。


一人きりになりたいという思いは、常に変わらず僕の中に存在した。だから一日に一時間ばかり走り、そこに自分だけの沈黙の時間を確保することは、僕の精神衛生にとって重要な意味を持つ作業になった。

歳をとるのはこれが初めての体験だし、そこで味わっている感情も、やはり初めて味わう感情なのだ。だから僕としては今のところ、細かい判断みないなことはあとまわしにし、そこにあるものをあるがままに受け入れ、それとともにとりあえず生きていくしかないわけだ。ちょうど空や雲や川に対するのと同じように。そしてそこには、ある種のおかしみのようなものが間違いなく存在しているし、それも考えようによってはまんざら捨てたものでもない、という気がする。


日常生活においても仕事のフィールドにおいても、他人と優劣を競い勝敗を争うことは、僕のもとめる生き方ではない。つまらない正論をいうようだけれども、いろんな人がいてそれで世界が成り立っている。他の人には他の人の価値観があり、それに添った生き方がある。僕にはぼくの価値観があり、それに添った生き方がある。そのような相違は、日常的に細かなすれ違いを生み出すし、いくつかのすれ違いの組み合わせが、大きな五階へと発展していくこともある。その結果故のない非難を受けたりもする。当たり前の話だが、誤解されたり非難されたりするのは、決して愉快な出来事ではない。そのせいで心が傷つくこともある。これはつらい体験だ。

しかし年齢をかさねるにつれて、そのようなつらさや傷は僕の人生にとってある程度必要なことなのだと、少しずつ認識できるようになった。考えてみれば、他人といくらかなりとも異なっているからこそ、人は自分というものを立ち上げ、自立したものとして保っていくことができるのだ。僕の場合でいうなら、小説を書き続けることができる。

ひとつの風景の中に他人と違った様相を見て取り、他人と違うことを感じ、他人と違う言葉を選ぶことができるからこそ、固有の物語を書き続けることができるわけだ。僕が僕であって、誰か別の人間でないことは、僕にとってのひとつの重要な資産なのだ。心の受ける生傷は、そのような人間の自立性が世界に向かって払わなくてはならない当然の代償である。

腹が立ったらそのぶん自分に当たればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。黙って飲み込めるものは、そっくりそのまま自分の中に呑み込み、それを(できるだけ姿やかたちを大きく変えて)小説といういれものの中に、物語として放出するようにつとめてきた。

僕が勉強することに興味を覚えるようになったのは、所定の教育システムを何とかやり過ごしたあと、いわゆる社会人になってからである。自分が興味を持つ領域の物事を、自分にあったペースで、自分の好きな方法で追求していくと、知識や技術がきわめて効率よく身につくのだということがわかった。たとえば翻訳技術にしても、いわば身銭を切りながらひとつずつ身につけてきた。だから一応のかたちがつくまでに時間がかかったし、試行錯誤も重ねたが、そのぶん学んだことはそっくり身についた。

学校で僕らが学ぶもっとも重要なことは、もっとも重要なことは学校では学べないという心理である。

健康な自信と、不健康な慢心を隔てる壁はとても薄い。

人は誰であれ、永久に勝ち続けるわけにはいかない。人生というハイウエイでは、追い越し車線だけをひたすら走る続けることはできない。しかし、それとは別に、同じ失敗を何度も繰り返すことはしたくない。ひとつの失敗から何かを学び取って、次の機会にその教訓を活かしたい。少なくともそういう生き方を続けることが能力的に許される間は。

現実のビールは、走りながら切々と想像してたビールほどうまくはない。正気を失った人間の抱く幻想ほど美しいものは、現実世界のどこにも存在しない。

小説家にとってもっとも重要な資質は言うまでもなく才能である。才能の次に小説家にとって何が重要な資質かと問われれば、迷うことなく集中力を挙げる。自分の持っている限られた量の才能を、必要な一点に集約して注ぎ込める能力。これがなければ大事なことは何も達成できない。そしてこの力を用いれば、才能の不足や偏在をある程度補うことができる。集中力の次に必要なものは持続力だ。

レイモンド・チャンドラーは「たとえ何も書くことがなかったとしても、私は一日に何時間かは必ず机の前に座って、一人で意識を集中することにしている」というようなことをある私信の中で述べていたが、彼がどういうつもりでそんなことをしたのか、僕にはよく理解できる。チャンドラー氏はそうすることによって、職業作家にとって必要な筋力を懸命に調教し、静かに志気を高めていたのである。そのような日々の訓練が彼にとっては不可欠なことだったのだ。

芸術行為というものは、そもそもの成り立ちからして、不健全な、反社会的要素を内包したものなのだ。だからこそ作家の中には、実生活そのもののレベルから退廃的になり、あるいは反社会的な衣装をまとう人が少なくない。それも理解できる。しかし、息長く職業作家として書き続けていこうと望むなら、我々はそのような危険な体内の毒素に対抗できる、自前の免疫システムを作り上げなくてはならない。そうすることによって、我々はより強い毒素を正しく効率よく処理できるようになる。

言い換えれば、パワフルな物語を立ち上げられるようになる。そしてこの自己免疫システムを作り上げ、長期にわたった維持していくには、生半可ではないエネルギーが必要になる。どこかにそのエネルギーを求めなくてはならない。そして、我々自身の基礎体力の他に、そのエネルギーを求めるべき場所が存在するだろうか?

真に不健康なものを扱うには、人はできるだけ健康でなければならない。つまり不健康な魂もまた、健全な肉体を必要としているわけだ。健康なるものと不健康なものは決して対極に位置しているわけではない。対立しているわけでもない。それはお互いを補完し、ある場合にはお互いを自然に含みあうことができるものなのだ。往々にして健康を指向する人は健康のことだけを考え、不健康を指向する人は不健康のことだけを考える。しかしそのような偏りは、人生を真に実りあるものにはしない。

職業的にものを書く人間の多くがおそらくそうであるように、僕は書きながらものを考える。考えたことを文章にするのではなく、文章をつくりながらものを考える。書くという作業を通して思考を形成していく。書き直すことによって思考を深めていく。しかし、どれだけ文章を書きなおしても目的地に到達できない、ということももちろんある。そういうときは、ただ仮説をいくつか提出するしかない。あるいは疑問そのものを次々にパラフレーズしていくしかない。あるいはその疑問の持つ構造を、何か他のものに構造的に類化してしまうか。

ゴールインすること、歩かないこと、レースを楽しむこと。この三つが、順番通り僕の目標になる。

「グレート・ギャッツビー」これは本当に見事な小説だ。何度読み返しても読み飽きることがない。文学としての深い滋養にあふれている。読むたちに何かしら新しい発見があり、新たに強く感じるところがある。弱冠二十九歳の作家に、どうしてここまで鋭く、公正に、そして心温かく世界の実相を読みとることができたのだろう。そうしてそんなことが可能だったのだろう。考えれば考えるほど、読み込めば読み込むほど、それが不思議でならない。

僕らの意識が迷路であるように、僕らの身体もまたひとつの迷路なのだ。いたるところに暗闇があり、いたるところに死角がある。いたるところに無言の示唆があり、いたるところに二義性が待ち受けている。

何も水泳や小説に限ったことではない。決まったことを決まった手順で、決まった言葉で教えられる教師はいても、相手を見て、相手の能力に合わせて、自分の言葉をつかってものを教えることができる教師は数少ない。というか、ほとんどいないと言っていいかもしれない。

ある場合には、時間をかけることが一番の近道になる。

生きることのクオリティは、成績や数字や順位といった固定的なものではなく、行為そのものの中に内包される。

僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えないが、しかし心で感じられる何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは、往々にして効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。