★私にとって書くということ(三浦綾子) 【抜き書き】

「ご夫婦というものは、そう簡単に別れられないものだと思います。また別れてはならないものだと思います。わたくしは、とにかく一人の女性をおしのけ、不幸におとしいれてまで幸福になりたいとは思いません。それとも課長さんは、そんな女性が好きなのでしょうか。もし、そんな女性が好きなあなたなら、わたくしはそんなお方は嫌いです。そんなあなたなら、わたくしと結婚なさっても、結局はまた同じことを繰り返すことになるかもしれません。課長さん、あたくしの母は、父が愛人のもとに走ったために、辛い一生を送ってきたのです。かけがえのない、この一生を、母は父たちのために、悲しく生きなければなりませんでした。さようなら」


多喜二の氏と、イエスキリストの死に何か共通のものがあるのではないかと言う点は、かなり初期から意識していました。もしセキさんがキリストの死体を描いた「ピエタ」をみたならば、普通の人とは違う思いを抱いたのではないか、という気がします。キリストの場合とまったく同じとは思いませんが、子どもを無惨な形で失った母としてマリヤと共通の痛みを持ったのではないでしょうか。

小説を書くとき、私は、自分の感動した事柄を核として書き始める。自分が感動もしないことを、人に感動させるわけにはいかない。読者が泣いて読んだと書いてきた小説は、わたしが、その読者よりも、倍も泣いて書いた小説である。それほどの感動を持たなければ、私には書けない。

次に大切なことは、「自分のよく知っている世界を書く」ということである。「氷点」は医師の家庭を描いたが、これは私が、十三年も長い療養生活を通じて、何人かの医師をじっとみつめてきたという経験があったからだ。自分は医師ではないが、医師の心の動きを、患者はかなり観察しているものだ。また私の小説には、教師がその主人公になっているものが多い。それはやはり、私自身が、元・小学校の教師をしていて、その世界をよく知っているからである。次に心がけていることは、登場人物に、自分の知っている人物の性格を借りてくることである。むろん全くそのままの人物を書くということではない。モデルと登場人物は同一人物ではないが、そうすることによって、リアリティが出てくるとわたしは思うのである。それでいて、どの人物も自分が作り出すのである。

最後の小説を書くに当たって、もっとも大事なことを記しておきたい。それは、書き始めた以上、書き上げるということである。どんなにじょうず名小説でも、尻切れトンボでは発表することはできない。一方多少拙くとも、とにかく書き上がっていればそれは一編の小説なのである。書き出しにばかり凝って、とうとう書かずじまいになる才のある人がどれほどあることか。けっして途中で投げ出してはならない。

金平糖は、けし粒を核にしてつくるという。精蜜だけでは、あのギザギザのついた金平糖は結晶はしない。小説を書くわたしにとって必要なのは「感動」という「けし粒」なのである。しかし、けし粒があっても精蜜がなければ金平糖はできない。問題は、まず自分自身がいかなる精蜜であるかということであり、その次に何をけし粒にするかということかもしれない。

わたしは信者だから小説を書けるし、また書いているのであって、単に自分の考えを書いているのではないのです。

私が小説を書くと言うことは、例えて言うなら、おいしものを食べたらそれを愛する人にも分けてあげたいという気持ちと同じものなのです。私の知ったキリストの教えが、とてもすばらしいものだから、それを多くの人にも知らせてあげたい、そういう思いが、小説という形になってあらわれてきているのです。