教えられることと教えられないこと

短歌や俳句を作る人が書く散文は、たいてい見事だ。これは、文章が上手になるには短歌や俳句をつくるのが早道なのか、もともとよい文章の書き手は短歌か俳句に集まるのか、おそらく両方なんだろう。

詩歌の本質は、緻密な観察と、深い洞察と、的確な言葉選びだと思う。「言葉選び」はともかく、「観察」や「洞察」する眼の高低は生来のもので、訓練によっては上げることはそんなに期待できない。

さらに言うと、選びだされる言葉も銘々がその日常生活で如何にその目方や色彩や風味を精確に感受するかが肝腎なのだから、結局、人間のリテラシーは「観察」や「洞察」にだけ宿っているということになる。

よく「ユニークなものの見方」とか「切り取る角度の鋭さ」みたいな言い方があるが、自分はそういうものをあまり信じない。世の多くのものの見方が誤っているから、正確なものの見方が物珍しくなって、結果「個性的」という外貌をまとっているだけの話だ。

一部のすぐれたものを除き、たいていの文章教室や文章読本のたぐいが釣り落としているのは、この「観察」や「洞察」の重要性である。感動的な表現や言葉遣いの前に、感動的な観察や洞察がある。(へんな言葉だが)

しかし視覚や聴覚で捉えられるアウトプットと違って、めいめいの感受性によって内面的に進行するインプットは傍目には見えないものだ。その人自身にしてからが、今自分がよいインプットをしているのか、悪いインプットをしているのかどうかも判らない。

人間が何をインプットしたかは、アウトプットするまで判らない。良いアウトプットを産み出すのはひたすらに良いインプットであって、アウトプットをする手つきや道具ではない。

脚本家の倉本聡が北海道につくったシナリオ作家や俳優の養成学校では、塾生に農作業をさせていたらしいが、おそらくその狙いは、大自然で汗水たらして働く農民ドラマの書き手を養成しようとしていた、のではなく、繊細で深みのあるインプットができる心の土壌を造ることだったのだろう。(農作業にそのような作用があるのかどうかは知らないが)

「学校」には、生徒が「まだ持っていない」知識や技能を仕込む機能と、生徒が「すでに持っている」資質や個性を顕在化する機能の、二つの機能がある。学習塾や資格専門学校ならば前者の機能で十分だが、「文章教室」は後者を志すべきであろう。しかし、その方法論は五里霧中なのが実状だから、教師はとりあえず畑仕事でもさせておく他ないのである。