井筒俊彦と「西洋」の思想

言語哲学者の井筒俊彦の生誕百年を記念して企画された、慶応義塾大学の公開セミナー「井筒俊彦と西洋の思想」を聞きにいく。

自分はこういった無料セミナーのたぐいに忍び込むのを一つの趣味にしているが、その目的は、新しい知識を吸収するというよりも、話の内容から手前勝手な妄想をふくらませて、いろいろ頭でもて遊ぶのが愉しいからだ。

井筒俊彦については、自分は司馬遼太郎との対談相手として、かろうじてその名前を知っているぐらいだが、斯界では、ほとんど神格化された存在らしい。司馬遼太郎はその対談で、「井筒先生の中には、二十人か三十人ぐらいの天才がいる」といっていた。司馬一流のリップサービスを差し引いて考えてみても、常人とは思えない頭脳を持っていた人だということは、どうやら本当らしい。

このセミナーの存在を知った日経新聞の記事よると、井筒氏は世界のあらゆる思想を統合した「普遍思想」のようなものを構築することを、最終的には目指していたらしい。凡人は個別性に耽溺し、天才は普遍性を志向する。いかにもありそうな話だ。普遍思想とは、ようするに世界中の宗教や哲学の最大公約数を見い出してそれを「見える化」し、さらには体系化・教条化するということになるだろうが、

たとえば、仏教とキリスト教イスラム教とユダヤ教ジャイナ教ヒンズー教真如苑幸福の科学の共通因子はなんだろう。自分には逆立ちしても「儀式をする」ぐらいしか思いつかない。

おそらく、いかにその探索者が世界中の宗教哲学に通暁した天才学者であろうが、その公約数は限りなく1に近い、狭窄した範囲に限定せざるをえないのではないか。つまり、広くグローバルを志向すればするほど、狭い場所にじわじわと追い込まれていくパラドックスに、直面せざるをえないのだ。「普遍思想」というといかにも「グローバル」チックであるが、恐らく話は逆だ。

そんなことを言うと地下の井筒氏は一笑に付しながら、「普遍性を見いだすんじゃないよ。普遍性を創り出すんだ」というかもしれない。(もし相手にしてもらえれば)しかし、一人の人間が、万人に通用する普遍性を新たに創り出すのは、まず不可能だと言い切ってよい。

これは井筒氏の能力云々以前の話だ。それは、いかに肺活量がある人でも月面で無酸素で降り立つことはできないというのと同等のレベル感の、圧倒的な不可能なのだ。それはグローバル哲学を創り出すより遙かに易しいはずだったグローバル言語(エスペラント語)が頓挫した現実ひとつからも容易に帰納できる。

もっとも、自分の脳内だけで創り出して、一人勝手にもてあそぶ箱庭のようなコスモロジーならば、作られないこともないだろう。しかし、そんなものを作ったところで、だれにも必要とされないし、つくった本人もむなしいだけだろう。日本が世界に誇る言語哲学者・井筒俊彦が志向していたのは、そんな空虚なものだったと思えないが、もし、その壮大な構想に取り組んだとしても、結果的にはそうならざるを得なかったのではないかという思いこみから自分は今のところ脱していない。

今日の公演は、東大のユダヤ思想の学者が出てきて、井筒俊彦とはあまり関係のない専門分野の話ばかりされて終わってしまったが、最後に質疑応答に立った、アジア系の若い留学生の質問が面白かった。彼は、ジャック・デリダの反形而上学と、井筒俊彦の思想は、どう橋渡しができるのか、と訊いたのだ。

簡単に言うと、経験哲学と観念哲学、もっと平たくいうと現実主義と理想主義はどう橋渡しをしたらいいのか、と訊いてきたのだ。これは、おそらく哲学上の最難問のひとつで、いくら考えても答えがでないし(恐らく人類滅亡まで答えがでない)、この質問への返答のしようによって哲学者の力量が知れるような究極の問いだとも言えるが、

驚くべきことに講演者は、「自分は宗教が専門で、哲学のことはよくわからないから答えられない」と返事をした。

自分は大いにズッコケたが、考えてみると「自分の専門ではなないからわからない」とは、自分の力量の無さを謙虚さに変換できる、とても上手なその場しのぎの技法かもしれない。それを学べただけでも、今日、はるばる三田まで足を運んだ甲斐があったというものだ。