それをいっちゃあおしまいよ

以前、学習塾に子どもを通わせるお母さんたちを集めたグループインタビューを見学したとき、我が子の受験勉強について参加者たちが持論を熱っぽく語りあっている中、ひとりのお母さんが、

「でも、そんなに勉強していい大学に入って卒業しても、今はろくな企業に就職できないようですよ。わたしが買い物をする近所の小さいスーパーに早稲田大学を卒業した社員がいます。今のご時世、そもそも、しゃかりきに勉強する意味なんか、あまりないんじゃないでしょうか」という意味のことをいったのを、聞いたことがある。

座は一瞬凍りついたが、すぐにその発言は参加者の無言の合意によってスルーされ、議論は再開され、ことなきを得た。

このような、「事の本質を突きすぎて人びとを思考停止に追い込む発言」が飛び出したとき、その発言の主にかけるのにぴったりの言葉がある。それが「それをいっちゃあおしまいよ」である。

人びとを思考停止に追い込むのは迷惑千万ではあるが、こういった類いの発言が「事の本質」つまり、物の真理を突いている」ことにはかわりがない。となれば、こういったミもフタもない爆弾発言にも、一定の有用性があると認識して然るべきだろう。

さて、この類いの発言の代表格に「人はいずれ死ぬ」と「だれでも死ぬときは一人」がある。

これらを、不幸せだったり孤独だったりする人の妬み節、恨み節だと一蹴するのはたやすいが、「人はいずれ死ぬ」も「だれでも死ぬときは一人」も、疑いようも無い裸の真実だ。この事実は避けようもない。だから事実としていったん受け止めてみてはどうだろう。

大切なのはその後だ。こういった思考は、そのまま放置するとニヒリズムになって心身を蝕む。だから、その先の、さらに高次元の真理を見出すことが、なんとしても必要だ。

たとえば、その人生終末の真実から逆算し、今の自分の真の生きる意味を見失った、ピントがずれまくった公私にわたる行状(自分で書いていて耳が痛いが)を軌道修正する契機にできれば、そこには一定の有用性が生まれたことになる。つまり、それをいってもおしまいではなくなるのだ。

冒頭に挙げた受験勉強の無意味さを突いた一主婦の爆弾発言にしても、勉強に励む目的を単なる「いい大学といい会社へのパスポート」として捉えるのではなく、「学ぶ愉しみや知的創造を産み出す悦びを体験するための基礎訓練」というより高次元の目的を見出す契機になれば、それはただの問題発言では終わらない、価値ある寸言になる。
 
とはいえ、子供に勉強をさせる目的をそんな崇高な(?)場所に置いている殊勝な父兄はまずはいないだろう。多くの親が、勉強ができるようになり、いい大学に入ることができれば、とりあえずは、将来子供はいい目に会えそうだ、少なくともその確率は若干でも高まる、となんとなく思い込んでいる。

白状すると、なんとなくそう思い込んでいることにおいては、自分も御多分に漏れないのだが、これこそが深刻な思考停止だと認識するべきだろう。その膠着状態をかき回す意味においても、「それをいっちゃあおしまいよ」的な発言は、社会的価値は高いといえるかもしれない。