人生談義

茶店や電車の中で、若い女性どうしの話を聞くともなく聞いていると(つまり聞いているわけだが)、えんえんと恋愛の話をしていることがよくある。

これは自分の知る限り、女性特有の現象で、若い男性どうしが恋愛の話を延々としている場面にはまずお目にかからない。

仮にこれを自分の個人的な印象や経験ではなく普遍的現象だと仮定すると、いったいどういう理屈がつけられるのか。

少なくとも「女性の頭の中では異性の存在が占める領分が男性より大きい」という単純な話ではない。意識的にせよ、無意識的にせよ、青春時代に異性の存在(一部の人にとっては同性の存在)が頭の中で大きな面積を占めていることにおいては、男女の差はさほどないと思われる。

延々と同じテーマについて議論することができるということは、そのテーマに深い知的な関心を寄せていればこそだ。

若い男の場合、恋愛は得てして性欲的観点から論じられる。極端に言えば、「もてたい」とか「やりたい」といった形而下的な言葉を交わしあっておしまいである。往々にしてその議論は即物的で、浅薄だから、対話が長持ちしない。

一方女性は、このテーマにおいて、理想と現実と体験と妄想と見栄をない交ぜにした一種の人生談義まで深耕させることができるので、話として長持ちする。

ちなみに、人生談義には未熟も成熟もない。小学生から老人まで、各年代には各年代なりの人生談義があり、それらは、それぞれに個有の深さを持っている。

「だから女は知的で男はバカなんだ」といいたいのではない。この違いは、男女の身体的しくみやその役割に深く根ざした理由があるように思われる。