リサイクル

輪廻転生とは、要するに「死んだあとに、自分以外の何かに生まれ変わること」であるが、仏教の教えによると、生まれ変わり先は実にさまざまで、イモリが人間になることがあるし、美女が鈍牛に生まれ変わることもある。そして、それを決定するのが「因果」というもので、善きにつけ悪しきにつけ、「前世の報い」で転生先が決定する。

ところで、人間が悪行の報いによってイモリに生まれ変わるぐらいならわかるが、イモリが人間に生まれ変わる場合、かれはイモリ時代にどんな「行」を積んだのか。そもそも、イモリの生活に「行」の積みようがあるのか。また、人間になることは、イモリにとって「栄転」なのか「左遷」なのか。(左遷のような気がするが)

松田聖子郷ひろみが恋人関係を解消するとき、「生まれ変わったら一緒になろうね」と申し合わせたらしいが、それぞれがイモリと鈍牛に生まれ変わっていたら、一緒になりようがないではないか。来世の守れない約束をするぐらいなら、現世で関係修復をきっちりした方がよほどてっとり早いのに・・・という不粋な指摘はやめておこう。要するに彼らは、泥まみれの修羅場をお花畑のような言葉で糊塗したにすぎないのだから。

このように、「生まれ変わったら」という言葉は、本音を建て前で取り繕う働きがある一方、逆に、建前から本音を鋭くえぐり出す作用もある。たとえば、ある人に対して「生まれ変わったら何になりたいですか」という質問のねらいは「あなたは本当は何になりたかったのですか」という本音のあぶり出しである。

以前、テレビ番組に特集されたある漫画家が「生まれ変わったら・・」の質問を受けて、「生まれ変わりなんて無いのだから、前提条件が成立していない質問には答えられない」と返事していた。彼の場合、「今、本当になりたい自分になっている」という本音を婉曲に回答していたと言える。 

「生まれ変わったら・・」の質問に対して真剣に考え込んだら、それだけでその人は自らの来し方に忸怩たるものを感じていると判定してよいだろう。ようするにこの言葉は、人間の本音をさぐる手段として恐るべき切れ味を持つ問いなのだ。