パターナリスティックと東京カジノ

法律で禁止されている行為には、加害者と被害者がそろっている場合と、両方いない場合の二通りがある。

前者の代表例として傷害や殺人、後者の代表例として、売春や麻薬の売買そして賭博が挙げられる。

後者のように公権力が、父権的立場から「そんなことをやっているのは人倫にもとるし、身を持ち崩すから止めなさい」と禁止する、いわば官憲が焼く大きなお世話のことをパターナリスティックという。

賭博がなぜ「人倫にもとる」のかは、地道な勤労を飛び越して一攫千金を得ようとするところであり、「身を持ち崩す」のは、負けが込んで負債を抱え易く、ややもすると中毒依存症のたぐいにおちいりかねないところだと考えられる。

しかし、それを言ったら、投機目的の株や債券投資なども同じはずだし、競輪・競馬・競艇など公営ギャンブルも、確実に人倫にもとり、身を持ち崩すタネなのだから、根こそぎ禁止されてしかるべきだが、

「そんなことをいっても賭けごとは人間の根源的欲求だから、公的な施設で限定的に行なって社会の『ガス抜き』をするのは必要なことだ」という向きもあろう。

しかし、そういう論理がゆるされるのならば、いささか極論めくが、公営の売春施設や覚醒剤販売所があってもいいことになる。

そのあたりの線引きがどういう理屈でなされているのか、自分にはさっぱりわからない。

公営ギャンブルと賭博の違いは、かつての公娼と私娼の違いだとひとまずは説明できようが、公に認可されていようがされていまいが、結局は売春であることには変わりがなかったからこそ、戦後、法律で全面的に禁止されるようになったのではないか。

すでに今は昔の話になっているが、以前相撲界で野球賭博が表面化し、大きな問題になったことがある。
 
野球賭博の場合は、暴力団がからんでいたので。より悪質であり、厳罰は当然だという意見もあろうが、賭博の結果による金銭の回収と分配を担保するには、参加者がビビるぐらいの強権的な存在が全体にニラミを利かせることが必要で、このケースでは暴力団は必要悪になる。

だからいっそ野球賭博公営ギャンブルにすれば、胴元としてのヤクザの存在価値は消滅し、彼らのシノギをひとつ潰すことになるもだろう。

これはとてもいいアイデアかもしれない。そもそもサッカーでやっていることが、どうして野球じゃだめなのか。

えーと、自分は結局なにが言いたいのだろうか。。

おそらく、要するに賭博の認可あるいは禁止という行為には、多くの矛盾や欺瞞がごったまぜになっていてさっぱり訳が分からないことになっている現状に、疑問と怒りをぶつけているのだ(と思う)。

このテーマは、あまりに臭いものだったので歴代施政者からフタをされ続けてきたのだが、東京オリンピックを契機に、やおらカジノ導入論議が盛り上がっているのを潮に、誰か正面切ってこの問題を蒸し返して、きれいさっぱり論点整理してくれる人はいないだろうか。

いないだろうなあ。。