居場所について

NHKで、家庭に居場所がない子供たちに食事を提供している老婦人を取材した番組を見た。

NHKスペシャル「ばっちゃん〜子どもたちが立ち直る居場所〜」
http://ameblo.jp/skyblue-junior/entry-12236597626.html

この人は、子供たちから「ばっちゃん」と呼ばれている。ばっちゃんには、子供が男の子なら暴行や恐喝、女の子ならば売春などの非行に走る原因は「おなかをすかせていること」にあり、それをお満たせば子供はそう悪いことはしない、という信念がある。

ばっちゃんは、この信念にもとづいて、自宅で子供向けの無料食堂を開いている。ばっちゃんのもとにいきたくなった子供は、電話で「予約」を入れるのだが、ふらりと訪れて、ごはんをちょうだい、といったケースもある。

ばっちゃんは単に食事をさせるだけではなく、子供たちの問わず語りにも耳を傾け、相談にも乗り、ときには長々と説教することもある。ようするにこの人は、家庭から切り離され、親から見放された子供たちにとっては、本来ならば父母あるいは祖父母が果たすべき役割を代行している。

ばっちゃんは、もとは犯罪で服役していた少年少女が出所したときに社会復帰を助けるボランティアをしていたが、だんだん子供間で存在が知られるようになり、来訪者がどんどん増え、賛同する周囲の支援も受けながら、三十年間無償でこの無料食堂を続けている。

番組のスタッフは、「なぜこういうことを続けているのですか」と問うのだが、ばっちゃんは「なんででしょうねえ」とはぐらかす。「何か喜びがあるから続くんでしょうね」と重ねて訊くと、「そんなものありゃせん」と否定する。

番組的には、ばっちゃんが「自分に課せられた使命の尊さとそのやりがい」について語る絵が欲しいところだろうが、ばっちゃんがしていることといえば、ご飯を作ることと、子供と会話することだけである。

番組ではなにも触れていなかったが、手前勝手な忖度を許してもらえれば、ばっちゃん自身の過去に、自分の居場所を確保するにあたっての闘いや葛藤があり、それが、目の前にいる居場所を失った子供たちの現在と、共振するのではないだろうか。

つまり、ばっちゃんは「居場所を失った子供たちに居場所を提供することに自分の居場所を見いだした」のではなかろうか。

子供たちが、ばっちゃんを深く信頼するのは、自分がばっちゃんを「求めている」からだけでなく、ばっちゃんからも「求められている」と、確信しているからである。人間同士が信頼しあえるのは、お互いに「相手は自分を求めている」と確信できればこそだ。

人間の苦難とは、すべて「自分の居場所を失う悲しみ」と「自分の居場所が無い苦しみ」に収斂されるのではなかろうか。これは政治的な権力闘争や、職場での役職や仕事の奪い合いというレベルにとどまらず、もっと人性に則した本質的な話である。

男の子が暴行するのも、女の子が売春するのも、自分の激しい暴力で被害者がのたうち回るさまや客が自分の肉体を貪るさまを眺めなくては、この世に生きている実感がもてないほどの、巨大な空虚を内に抱えているからである。

「ばっちゃん手作りの料理」は単なる食べ物である以上の、その空虚を(たとえ一時的にでも)満たすはたらきがあり、おそらくそれを観ているばっちゃんの中にある何ものかも満たしているのである。

成長も、勉強も、練習も、進学も、就職も、恋愛も、結婚も、家庭をつくることも、仲間をつくることも、仕事をすることも、それを通じて得る栄達や褒賞も、すべて社会や共同体において自分の居場所を確保する、あるいはそれが有ることを確かめる目的への手段、あるいはプロセスであり、そして終着点としての「死」はこの世に自分の居場所を失うことであるがゆえに、普遍的に恐れられ、忌避されるのではなかろうか。

逆に言えば、たとえ肉体がなくなっても、社会の中で、物質的にでも、精神的にでも、何らかのかたちで自分が生きた刻印が残ることが確信できれば、死は幾分でも受け入れやすいものになるのかもしれない。

そして、人間が何か言葉を発するときに、それが自分の居場所に関する問題であればあるほど、その言葉つきはのっぴきならない切実さを帯び、そこで交わされる言葉はリアリティの純度を高めていき、本当のことしか口にできなくなる。ばっちゃんと子供たちとの間で交わされる会話には、慥かに真実以外の何物も含まれていなかった。そのことも、自分には強く印象に残った。