「観」についての覚え書き

 公営のプールでさまざまな人の泳ぎを眺めていると、ひとくちにクロールといっても実に多様な泳ぎ方があることがよくわかる。ゆっくりと腕をまわし足はほとんど動かさない人、手足をせわしなく回転させる人、リズミカルに息継ぎを刷る人、じつにいろいろな泳ぎ方を目にすることができる。

そして、それぞれの人は自分の泳ぎ方に自足している。言葉を換えれば、泳者はそれぞれに個有の「クロール観」があり、皆それがすくなくとも現時点においては正しいものだと思っている。だって、ちゃんと前に進んでいるじゃないか、なんの不足があるんだ、と言うわけである。

もっとも、ちっとも前に進まないクロール観をもっている人もおり、ではこういう人は自身のクロール観を否定しているのかといえば、さにあらず、「確かに前にはなかなか進まないが、後ろに下がるわけではないし、何よりちゃんと浮いているじゃないか」という理由で、やはり自分のクロール観に、かぼそい自信をつないでいる。

なぜそんな脆弱なクロール観にも彼が縋りつかざるをえないのかというと、「観」を持たずして人間は物事に取り組むことができないからである。

ここでいう「観」とは、「先入観」あるいは「イメージ」と言い換えてもいいし、もっと即物的に言えば、「物事に直面したときに条件反射的にわき上がる感情、あるいは導かれる心の状態」ということである。

これはあらゆる技芸に共通することで、ゴルファーにはそれぞれ個有のゴルフ観があり、バイオリン奏者にはそれぞれ個有のバイオリン観があり、油彩画家にはそれぞれ個有の油彩画観があり、小説家にはそれぞれ個有の小説観があり、落語家にはそれぞれ個有の落語観があり、読書家にはそれぞれ個有の読書観がある。

そして、それぞれの「観」は、その技芸の経験を重ねるにつれて、あるいは上達を遂げるにつれて、場合によっては技量や体力が衰えるにつれて、どんどん変化しとどまることがない。

その「観」が快いものである限り、人間はその対象を「好き」でありつづけることができる。才能とはその対象に快い「観」を抱きうる能力のことである。「才能がある人」にとってはその対象に関わっていることがこの上ない快感であるから、いつまでのそこから離れようとしない。

そのいつまでも対象から離れようとしない後ろ姿が、第三者から見れば「飽くことのない努力」のシーンと映る。これが一般に言われる「才能とは努力する才能のことである」の謂である。

宮本武蔵五輪書に「観の目強く、見の目弱く」という一節がある。これについては様々な解釈の仕方があるだろう。例えば、物事は心の目で見るのだとか、個別の事象に囚われず全体を見るのだとかが、耳目に入りやすい解釈なのだろうが、それとは別に、「時間の流れをふまえて対象をみることが大切だ」という解釈の仕方があるのではないか。

たとえば、野球で打者が打ち上げたボールは、一瞬を切り取れば空中に浮かんでいる一個の白い丸だが、時間の流れを踏まえて認識すれば、いずれ加速をつけて落下して自分のグラブの中に手応えと共に収まる硬い球体である。つまり、空中に浮かんでいる白い丸をみて、自分のグラブに収まるまでの時間の流れをイメージしながら対象をみる、その観察眼を「観の目」と武蔵はいったのはないか。

そもそも、「観察」という言葉には、瞬間を切り取って凝視するのではなく、時間の経過とともに対象がどう変転していくかを見定め、記録していくという概念がある。「朝顔の観察日誌」などはまさにその段である。いうなれば、対象を凝固した「静止画」としてみるのではなく変転する「動画」として認識するのが観察の本質であるといえよう。

五輪書は兵法、つまり狭義には剣術(個人戦)の技法、広義には戦争(集団戦)の方法を説いた本だから、「観の目」とは、単に敵の現在の状態を凝視するのではなく、これまで敵がどう動いてきたかの振り返りと、そのあと、どう動いていくかを予測を含めながら対象を眺めることを指しているのだと思う。

では、そういった「観の目」は、どうしたら養い育てることができるのだろうか。それは、おそらく情報や経験の蓄積を待たなくてはならない。なんの予断も、予見も無い素のままの状態では、何かを「観る」ことはできない。

野球選手が空中のボールを「観」て、それをキャッチすることができるのは、何百回も、何千回も、練習や試合で空中に浮かんだボールの動きを見てきた経験の蓄積があればこそだ。繰り返し繰り返し見る過程の中で、何かが情報として蓄積され、何かが経験により成熟していなくては、本当に物事を「観る」ことはできない。

「見るのはない。観るのだ」こういう内容は、あらゆるスポーツにおいて言葉を換えて表現される。剣道においては対戦の過程において相手を凝視してしまうことを「居着く」といって戒める。サッカーにおいては相手チームの動きを足を止めて眺めることを「見てしまう」と表現する。

こう考えると、「観る」とは相手の動きを予測しながら視覚でとらえるという意味とともに、自分自身もその動勢の中にいてそれに順応するという意味まで含んでいるのだと言える。相手が動き、それに合わせて自分も動く、そして相手も自分に合わせてさらに動き、自分もそれに反応して動く。

そういった重層的なムーブメントの中で、なお自らが居る座標点を感知し、そこで為すべきことを見失わない。こういう精神態度を「観る」と総称できるのではないだろうか。