文章とは自己肯定である

「文章とは自己肯定である」というフレーズをどこかで読んだことがある。でも、どこで読んだのかどうしても思い出せない。もしかすると自分がつくった言葉かもしれないが、でも、こんなに気の利いた言葉を自分が作れるとは思えないので、たぶんどこかで読んだ言葉だろう。

まさに、文章とは自己肯定である。たとえ表向きは自己否定や自己揶揄や自己卑下の体裁をとっていても、「こんなに上手に自分を貶めることができるあたし(あるいはおれ)って、えらい」という念の入った(あるいはひねくれた)自己肯定であるのがふつうである。

そもそも、人間の精神構造は、自己肯定を基盤にしないとエネルギーが出ない仕組みになっており、文章を書くという行為は、単なる機能的な伝達文以外は相当の心的エネルギーを要するものだから、自分を否定したままだと一行たりとも書けないのである。これは決して比喩ではない。本当にまともな文章は一行も書けない。

作家や詩人のエッセイでよく見るパターンは、自分がいかに社会的常識がないか、あるいはオッチョコチョイか、あるいはモテないか、あるいはビジネスに疎いか、あるいは臆病で人づき合いが苦手か、という吐露であり、これらは一見自己否定のように見えるが、そうではない。

その言葉の裏には「こういう世間知の欠如は、すべてあたし(あるいはおれ)がもって生まれた高度な文学的感性の代償なのだ。つまり、こういう欠点を持っていることはあたし(同)は選ばれた人間であることの証明であり、その天賦の才能がもたらす恩恵に比べればチンケな世間知など、全くとるに足らないものだ」という自惚れがある。なお、その自惚れは、結果が悪く出れば「奢り」になるが、それはあくまで結果論であって、自惚れ自体はエネルギーの塊にすぎず、美徳でも悪徳でもない。

 もっと狡猾な書き手は、自己否定の正体が念の入った自己肯定だということぐらい底意地の悪い読者に見抜かれるのは折り込み済みだから、はじめから安易な自己否定などしない。かといって露骨な自己肯定も当然ながら避ける。では、こういう人が散文を依頼されたら何を書くかといったら、徹頭徹尾、他人(同時代や歴史上の人物)のことを書くのである。

これは歴史小説家やノンフィクション作家、あるいは文芸評論家がよく使う手である。でもこの手法をとったところで、「批評とは他人をダシにて己を語ること(小林秀雄)」だから、描く他人の選別とその描き方で書き手の自己が露出せざるをえないのである。大いに肯定している自己が。

「文章を書く行為が自己肯定だということがわかったが、そんな自己肯定ばかりしていたら、人間は成長しないじゃないか」と言われれば全くそのとおりで、自己を肯定してばかりいる人間は、現状の精神階層にとどまっているばかりで、人としてのステップアップは望めない。

人間の成長過程には自己否定が要る。これは進化への通過儀礼のようなものでそこから逃げることはできない。それは竹の節のようなものでもある。だから、擬態ではない真の自己否定をしている期間、いうなれば精神の潜伏期間においては、人間は自分の言葉を発することができない。(かつての共産主義者たちが自己批判をべらべら述べることができたのは、それが擬態だったからだ)

自分のごく若い頃、自分のことが徹底的にダメな人間に見えていた時期に、いかに自分がダメな人間かを書いておこうと思ったが、まるで書けなかったことがある。もっとも、これは過去の思い出話ではない。これからも同じことが起きる可能性は十分ある。もちろん起きて欲しくはないし、その覚悟もできていない。正直、この年になって「追加儀礼」などまっぴらだという気分もある。

世に「文章を書くのが好き」という人がいる。自分もその中の一人だが、その「好き」度は、「自己肯定」度とほぼイコールであると思う。つまり自己肯定度が深ければ深いほど、人は文章を書くと言う行為から離れられない。(たとえたくさんの読み手がいたとしても、これが浅い人は文章を書き続けることはできない)

ただし、自己肯定度とは「自分大好き度」とは毛色が違う。自己肯定とは、自分の中にある愚かさや悪どさ、心の狭さや頭の悪さ、気の小ささや才能の無さといった、直視するのに苦痛が伴うような現実さえも、包括的に受け容れる態度である。

それらを改善しよう克服しようという雄々しい意思も無いではないが、改善しなくても克服しなくてもいいやと、どこかで女々しく諦めているような、さらに言うと、それさえもあらゆる生きる燃料に、たとえば文章で言えば書くネタに転化してしまえるような心構えのことである。

この心構えがないと、つまり自己肯定度が低いと、自分の弱点はことごとく自らのモチベーションを損なう方向に作用するようになる。ひどくすると精神を病むことにもなる。こうなると生きてゆくということがひどく難儀なものになるから、自己肯定度を高めるということは、一種の生きぬく智慧でもある。

長々と書いてきて、結局何が言いたいのかというと、自己とは、原則的には、否定し克服すべきものではなく、肯定し受容すべきものだ、ということである。もっともこれは原則であって、なんでもかんでも意気地なく諦めればいいという訳ではないし、そんなことはもとより無理なことでもある。