野球についてのひとくさり

 阪神が、セリーグを制した巨人を4連勝で葬り去り、日本シリーズ進出を決めた。これを機会に、「リーグ優勝しても日本シリーズに出られないかもしれない現行制度下でリーグ優勝すること」に、人々がどれだけの価値を見出しているかを一度リサーチしてみるといいと思う。

もっとも、「そんなこと、どうだっていいとおもう」という回答がほとんどを占めるだろうけど。

日本シリーズといえばかつてはデーゲームでそれゆえに独特のムードがあった。学校の休み時間に「阪急が勝っているらしい」「王がホームランを打ったぞ」的な怪情報が教室を駆け巡るのも妙味があった。ユニホームを復刻版にするのもいいが日本プロ野球の復活にはあのムードの再来が必要なのではないか。

日本プロ野球の黄金時代は女性と子供をオフリミットにした成人男性の独占的世界で、わずかに子供男子の大人の職業世界を垣間見る憧憬の眼差しだけが参加していた。現代はほぼ逆で成人男性の過半が日本プロ野球に関心を示さない。この層を呼び戻さなくてはメジャーリーグの草刈り場から脱出できない。

日本プロ野球の凋落はいつから始まったかというと、私見では二つの節目がある。一つ目は、1970年代(おそらく)に広島東洋カープ高校野球のマネをして外野席における歌舞音曲(主な楽器はトランペット)による応援を始めたこと、二つ目は1990年代の野茂英雄の大リーグ挑戦が成功したことだ。

外野席における歌舞音曲による応援は、それまでのコアなファン層だった成人男性を離反させるきっかけになった。野球というゲームには攻守にわたる重層的な魅力があるが、歌舞音曲は基本的に「勝った」と「打った」にしか反応せず、この単調的空気が成人男性の野球熱を微妙に萎えさせた。

二つ目の野茂投手のメジャーリーグでの成功は、その後の「NPBのMLBのマイナーリーグ化」の端緒になった。「二軍」の試合に熱狂する観客は少数派だろうし、そこでのプレーにいつまでも甘んじる一流選手も同じく希少だろう。

では、外野席での歌舞音曲による応援を禁止し、日本選手のメジャーリーグ渡航を禁止する決まりをつくれば日本プロ野球が復興するかというと、前者はともかく後者はとうてい無理だし、一度出来た流れはある意味歴史的宿命であって、人工的にどうこうできる筋合いのものでもない。

さらに大きな話をすれば、リトルリーグや高校野球大学野球や社会人野球といった野球界全体が構造的に衰退している現況において、日本プロ野球の凋落はその象徴的現象に過ぎないという見方もできる。

では、なぜ日本において「野球」といスポーツがこうまでかつての輝きを失ってしまったのか。もっとも耳目に入りやすいのは、少子化とそれにともなうスポーツ人口そのものの減少、あるいは子供の行うスポーツの多様化だが、自分はこういった構造的な理由だけでなく、きわめて人為的な理由があると思う。

それは日本野球界独特といわれる「プロ野球とアマチュア野球の没交渉」あるいは「交流の原則禁止」という奇妙な決まり事である。プロ野球選手がアマチュア選手にバットの握り方を教えるとまるで犯罪でもおかしたかのような大ごとになる縛りである。

そもそも、なぜこんな決まりがあるのか。プロ野球側がアマチュア野球選手を汚く引き抜いたからとか、なんだかんだと理屈はつけられているが、煎じ詰めると「プロ野球=読売」「高校野球=朝日・毎日」「社会人野球=毎日」という斯界を牛耳る大手マスコミ同士のいがみ合いに過ぎない。

このバカバカしい「大人の事情」による縄張り争いが、「野球界」全体の大局的なポテンシャルを長期間にわたって損ない続けてきて、それが今、決定的に顕在化しているのではないかという気がする。

この「いがみ合い」には、歴史的宿命もくそもなく、やめようと思えばいまずぐにでもやめられるものだ。でも一部緩和はあれ、今後もやめようとはしないだろう。それは競合マスコミを忌み嫌い、足を引っぱりあい、縄張りを争うことが、彼らの社会における根強い文化になっているからである。

かような次第で、日本プロ野球の前途には暗澹たるものがある。これが結論である。「大人」の支持を失ったプロスポーツ興行がどんな末路をたどるかは、かつてのプロレスの歩みを観ずればある程度わかる、とも思う。