「生活を愛でる」大切さについて

 イケアにいき、生活を愛でる気分というものを味わう。

 こういう気分はどちらかというと女性に親和性があり、この性質があるがゆえに、(突然飛躍するようだが)女性は男性より自殺率が低いのではないかという気がする。

生活を愛でる気分とは、生きていることそのものを祝福し、衣食住を存分に楽しもうという欲求のことだ。もちろん個人差はあるが、一般的にいって、これは男性において薄く、女性において濃い。(男はたとえば「志」といったような空虚なものに囚われやすい)

男女の「生活を愛でる」感覚の違いは、たとえば結婚のような共同生活を営みにあたってどう作用するかというと、かえってこのくいちがいがうまくいく秘訣として作用することもあるのではないか、という気がする。

たとえば、男女とも「生活を愛でる」派で組み合わされると、家の中に本質的に女性が二人いるような状態になり、細かい嗜好のズレごとに騒動の種になり、かえってうまくいかないような気がする。

逆に、「生活を愛でない」派の男女でカップルになると、生活の場は殺風景、あるいは逆にトーンのない無秩序状態になり、これも気が枯れるもとになるだろう。

そして、女性が「生活を愛でない」派、男性が「生活を愛でる」派の逆転カップルだと、女性は男性を「男のくせに女々しい趣味だ」と嫌悪し、男性は女性を「女のくせにガサツなやつだ」と呆れるだろう。

では、女性が「生活を愛でる」派で、男性が「生活を愛でない」派の正統的(?)カップルならば万事うまくいくかといえば、やはり話はそう簡単でもなく、その男女の根本的な食い違いが甚だしくなりお互いにそれを受け容れられないレベルに進行すれば、やはり関係の亀裂になって表面化するだろう。

こう書いていくと、いずれにせよ男女の共同生活はうまくいかないのが宿命のようだが、おそらくこれが一般なのである。つまり「うまくいかない」のがデフォルトであり、「うまくいっている」状態が奇跡なのだ。そう考えればこそ、その苦みを粛然と受け入れ、その甘みを宝石のように大切にする気持ちも生まれるというものだ。

なお、自分は、男の御多分に漏れず、「生活を愛でない」派である。破帽弊衣を気取る趣向は無いが基本的に着るものには頓着せず、馬食鯨飲はするがグルメにはほど遠く、タタミ一畳分のスペースさえあれば心身共に安らかになれる。

これまでは、こういった自分の「無欲」あるいは「諦観」とも呼べる精神態度を、ある意味密かな自慢の種にもしてきたが、最近では、これは自慢の種どころか、ちっとも褒められたものではない、それどころか致命的な欠点であるという思考に至っている。

それは人間が本当の窮状に陥った時に、根本からその人を支え、絶望の谷底からから正気の平野へ力強く引き戻すのは、「生活を愛でる」気持ち、つまり「生きていることそのものを祝福し、衣食住を存分に楽しみたい」という強い欲望ではないかと考えるようになったからだ。(ここから、冒頭に書いたような、男性の自殺率が女性より高いのはこの気持ちが男性において希薄なせいではないか、という仮説を思いついた。)

おおげさにいえば、こういう気分なくして、戦争や災害による荒廃から立ち直ることもあり得ない。焼け跡や、被災地にたたずみ、しばし諸行無常を嘆息しがちな「男性」的人生観より、「一刻も早くもとのように生活を楽しみたい」という欲望に燃え、目の前の石ころを片づけることから始める「女性」的人生観が、復興のエネルギーになることは間違いないだろう。

・・と、いまさら、こんなことを言っても追いつかないのだが、イケアを周回しながらこんなことをぐるぐる考えたので、書き留めておく。