「共」の思想

 高齢者の医療費や生活保護費など「社会的弱者」への補助に、昨今厳しい目が向けられている背景には、国の財政難の他に、人々の「共同体」意識の希薄化があるように思う。

共同体は、必至でポテンシャルを発揮しそれを支えている三割の人間とそれにぶら下がっている七割の人間で構成されているのが常だが、その三割にしても常にその位置にいるのではなく、子どものころはもちろん七割側で、働き盛りの一時期だけ三割側に属し、年老いてまた七割の側に回るのが常態である。

弱者援助を削減しようとする動きを怪しまない人は、当然ながら現在三割側にいる人で、こういう人は自分が役立たずの子どもだった時期があることも、いずれ役立たずの老人になる運命があることも、ともに忘れている。

だからといって、「弱者援助」をこのまま増大させていけば国が財政的にもたなくなることも裸の事実で、そこはある程度やむを得ない部分はあるのだが、問題なのは「弱者切り捨て」行為に本質的に内包している非倫理性や冷酷さをしだいに人々が意識しなくなるところではなかろうか。

いま「強者」でいる人は夢にも思わないことだが、人間は自動車にほんの軽くなでられただけで生涯歩けなくなるような脆弱な肉体しかもっておらず、他者からほんの一言さげすみの言葉をなげかけられただけで地獄の底を見るような、か弱い心しか持っていない。

自分自身がそういう目にあわなくては、他者の窮状を理解できないほどに、みながみな想像力を衰退させている現状がかなり問題だと思う。

また、昨今の「共同体」を軽んじつつある風潮には、「共」という字面や概念に、人々が往時の左翼思想(共産主義社会主義)の残滓を嗅いでいることもあるかもしれない。

左翼思想の根本にある感情は(あらゆる思想は感情が昇華したものである)、「未熟なもの」「弱いもの」に対する「優しさ」である。

そしてこの「感情」は、おそらくキリスト教の博愛思想、あるいは(神の下での)平等思想に通じている。(宗教を否定するマルクス主義者は断じて認めないところだが、自分はこう観てほぼ間違いないと考えている)

その「優しさ」が教条化し、厳格化し、官僚組織化することによって、左翼国家は建前と偽善と管理が横溢する警察国家になり、その硬直が、指導層の腐敗と民間活力の衰退に至り、結果、軒並み滅んでいった。

昨今の社会的弱者へ「自己責任」をタテに厳しい目を向ける勇ましい人たちの心底には、このかつての左翼思想へのアレルギーがあるのではないか。

しかし、人間が人間に対して優しさを持って対するのは普遍的に重要だし、そもそも、人間の共同体は、幼い者や傷ついた者や病んだ者や未熟な者や老いた者を、そうでない者(多くの場合青年から壮年にかけての健康な男女)が保護や治癒や育成することを前提に形づくられてきた。それが人間社会の根本的なありかたなのであり、このあり方を放棄すれは人間は人間でなくなるほど、これは大切なものだと自分は考えている。

これは「生産労働人口が減り、社会福祉制度が軋み始めている」といった目の前の事象だけでは揺るがすことができない性質のものだ。今はこの人類史的真実から認識しなおす必要があるのではなかろうか。