「いい人」について考える

幕末に日本を訪れた外国人の手記を読んでいたら「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、驚くべき事実である」という一節を見つけた。

おそらく事情は逆で、当時の日本人は共同体がこそって個人の世話を焼くしくみの恩恵に浴していて、あたかもラグビーの金言「個人は全体のために、全体は個人のために」を社会ぐるみで体現化していたのが当時の日本だったのであり、「幸福で満足しているように」見えたのはそのせいである。

現代のように、自らの幸福への努力をめいめいが強いられている状況がどれほど過酷なことか、その渦中にいる我々にはなかなか気づかない。そして気づかないまま、自分を責め、押しひしがれて自滅する人があとを絶たない。

個人主義は、西洋人はいざしらず、少なくとも日本人を幸福にはしない。このことはすでに明白になっていると思うのだが、「自分の人生がうまくいなかいのは、まだいろいろなシガラミの呪縛が残っていて、個人主義に徹しきれていないからだ」と思いこんでいるらしき人が、まだ多いような気がする。

ただ、個人主義者がひしめき合う世の中で、ひとりだけ「公共の福祉」を気遣う人になると、貧乏くじを引く、あるいは馬鹿を見る可能性が生じる。「いい人になるな」という、巷間喧しい言説は、このネガティブな可能性を根拠にしているわけだが、

しかし、人間は人間との関わりの中でしか、幸福を見いだすことはできない。これはどんなに人づき合いが苦手でも、避けられない宿命だ。

個人の社会的評価や権力や財産を無意味だとは言わないが、それらは人間との関わりを産み出しより深める手段として機能してこそ価値を持つものである。これは言わば「手段」であり、終局的な目的たりえない。

つまり、「社会的評価や権力や財産」の獲得を目的に、「人間と人間との関わり」を手段として利用する、あるいは、「人間と人間との関わり」を犠牲にして「社会的評価や権力や財産」の獲得を目指すのは、本末転倒だということである。(陳腐なオチで恐縮ですが)

「いい人になるな」という言説は、「いい人でいる」という思想より一段浅い、あるいはより未熟である。これは目先の損得とはまったく違う次元の話であるし、長い目で観れば、損得的にもそう割の合わない話ではないと自分は考えている。

江戸時代というと、「封建的」な厳格さが横溢していたように思う向きもあるだろうが、じつは社会の各階層が「いい人」だらけだった、とても生き易い世の中だったような気がする。その残滓は、知人と雑談するときの八十代以上と思しき高齢者の丁寧な物腰に顔をのぞかせているような気がするのだが、どうだろうか。