知識と思考

外山滋比古氏の講演をビッグサイトで聞く。知識量を増やすより思考力を涵養することが大切だとの説。言いたいことはわかるが、知識は思考の素材であり、そもそもこの二つに軽重をつけることが間違っている。確かに「素材に過ぎない」とは言えるが、素材がなければそもそも思考できない。

講演の場では無理なことはわかっているが、知識という言葉をもう少し丁寧に定義する必要があった。思考の素材となりうる知識は、例えば試験勉強が終わればきれいさっぱり忘れてわすれてしまうような表層的記憶ではなく、身に得る形で体得している深層的記憶だ。

体操選手が技を記憶するような、野球の投手がピッチングフォームを記憶するような極めて肉体に近しい部分にある一定量の知識が、思考の素材として不可欠だ。創造力のある科学者や、創見に満ちた知識人は、必ずこの種の記憶を豊富に持っている。

知識より思考力が大切だ、という俗耳に入りやすい粗雑な議論は、知識という言葉の定義を曖昧なまま遣っているところから生じる誤謬である。思考力を力強く走らせるためには、知識という石炭を絶えずくべ続けなければならない。

それはただ単に新しい情報を取り入れるということだけではなく、身にある記憶を絶えずメンテナンスして磨いておき、いつでも上手に思い出せるように備えておくことでもある。