「好き」という石垣


 サッカーの元日本代表のゴールキーパー川口能活選手の講演を聴く。長い経験の蓄積から滲み出る哲学の吐露は、もっとも聞く価値がある話のひとつだ。

講演中、彼は「サッカーが好き」という言葉を繰り返した。彼は、サッカー人生を通じて、骨折、靱帯断裂、レギュラー落ち、といった様々な苦難を乗り越えてきたが、それを支えてきたのは、「サッカーが好き」という一念だった。

逆に言えば、何か「好き」なものがないと、人生のハードルはとてつもなく高くなるのだろう。ささいな苦難にも容易に押しつぶされてしまうのは、たいてい「好き」が無いか、有っても希薄な人だ。

「好き」の対象は、仕事や、趣味や、人間関係だったりするのだろう。自分にもいくつかの「好き」があるが、それらを、あらゆる苦難の克服をなし得るほど「好き」なのか、と自問すれば、甚だ心許ない気がする。

白状すれば、川口選手におけるサッカーほど、自分には「好き」と言えるものは無い。しかし、それをしている時間を十分に愉しめることはある。自己満足かもしれないが、その程度でもいいのだ、と思っている。

「川口選手はサッカーの才能に溢れている、だから『好き』を見つけられた。『好き』を見つけられるのは、天賦の才能を与えられた、言わば選ばれた少数の人たちだけだ」というのは俗耳に入りやすい説で、一定の説得力はあるが、このあたりは、もう少し緻密に考える必要がある。

サッカーとは何か。それは、単なる大勢が広場に集まって繰り広げる点取りゲームではない。それは、サッカーボールを蹴った感触であり、ゴールネットの揺れぐあいであり、控え室の汗のにおいであり、ゴールポストの冷たい手触りであり、練習グラウンドの芝生の青さでもある。また、それは、なかなか勝てない相手チームであり、同じポジションのライバル選手であり、重要な試合で一敗地にまみれる屈辱でもあり、取り返しのつかない痛恨のミスですらあるかもしれない。

おそらく川口選手は、これらサッカーにまつわる全てのことが「好き」なのだ。そして、これらは全て、サッカーに携わる人すべてに平等に与えられる性質のもので、特別な才能は要しない。人間の「好き」と「才能」は、勿論まったく関係がないとまでは言えないが、決定的な因果関係には無いと思う。

それは人生を愉しむのに、何も人生の成功者や人生の達人になる必要はない事情に似ている。もちろん、諸所での成功や、恵まれた人間関係や、便利な生活環境は、人生を豊かにする要諦である。しかし、人間が生きていることの本質は、おそらくその他の場所にも十分に存していて、それは、冬の冷たい空気が肺に落ちる心地よさだったり、靴がスムーズに履けることだったり、イスの座り心地だったり、誰かに気持ちの良い挨拶をされたことだったりする。

おそらく、そういう細々とした、とるに足らないものの集積で、生きていることが「好き」という人生観は構成されている。これは、岩石のカケラや土くれの集積が、壮大な石垣を構成するさまにも似ている。年月を経て、そういうものが、慥かに胸中に積上がり、形づくられていれば、ちょっとやそっとの苦難の揺さぶりにあっても、心は容易に崩れないでいられるのではなかろうか。