平野啓一郎と田中慎弥

ブックフェアで平野啓一郎田中慎弥柴崎友香各氏の鼎談を聴く。個人的には田中氏の「読むように書くのが理想」という言葉が白眉だった。眠っているとき夢の中で進展するストーリーが圧倒的に面白いのは、自分で作っているという意識(責任感)から解放されているからだろう。

実際は自分の見ている夢だから自分で作っているのだが、その意識から解放され一種傍観者(読者)的な立場にいることにより、より身体的な、深層心理まで届くような尖った物語が展開しやすくなるのだろう。

平野氏は、この田中氏の言葉を受けて「田中さんに比べると自分はずいぶんコンセプチュアル(企図先行型)だ」と言っていた。これはどちらが優れているという話ではなく、作家とは大ざっぱにいって、田中氏のような無意識派と、平野氏のような意識派に分かれるということなのだろう。

田中氏は、別の発言で、「小説にテーマなどいらない。訴えたいテーマがあるのならば小説などという回りくどい手段をとらずに、それをそのまま論文やノンフィクションにすればいい」といっていたが、これも一面至言だが、最初からテーマがある小説だって当然あっていいわけだ。

論文にすれば400字で収まってしまうテーマでも、小説にすれば一年間の新聞連載になってしまうかもしれない。しかし、現代に蔓延している「主張は短ければ短いほど、簡潔なら簡潔なほど相手に伝わる」というイデオロギーは、一種の迷信である。

物語の形式をとらなくては、どうしてもこのテーマが伝わらない、という場合もある。例えばトルストイの「戦争と平和」のテーマは、おそらく「戦争は悲惨で、人生は過酷だ」(13文字)だろうが、それを十全に伝えるためには、あれだけの長編小説に仕立て上げる必要があったのだ。

まあ、トルストイは半分冗談だが、つまり小説にも、テーマ先行型と、成り行き任せ型の二種類があり、前者は意識型小説家(平野氏)の手になり、後者は無意識型小説家(田中氏)の手になるということなんだろうと思う。

平野氏が今大学で小説の書き方を教えていると言ったとき、田中氏がすかさず「そんなものを教えられるんですか」と突っ込んだのも両者の小説に対する意識的、無意識的の違いを明確にした場面だった。平野氏にとって小説とは意識的に構築するものであるから、当然ながらそこには伝授しうる方法論がある。

そういう意味では、方法論を持たない田中氏は天才肌といえようが、天才肌の陥穽は、方法論を持たないだけに、湧き出る泉がいったん枯れると一行も書けなくなる危険性をはらんでいるところだと思う。

田中氏は私生活において通常の社会的交わりの経験に乏しく、よって、それまでの読書体験から物語や表現の素材を汲み出さざるをえないbookish(文献偏重的)な作家体質は、芥川龍之介に似ている。

芥川龍之介は三十代で自殺したが、作家が自殺する理由など、どう詮索したところで以下の二つ以外考えられない。重病に罹っているか、小説が書けなくなったか、のどちらかだ。芥川の場合、おそらく後者で、それはやはりbookishだけで小説を書く限界の露呈だろうと思う。

ここまで書いてきてようやく気が付いたのだが、自分は平野氏より田中氏の方に全身小説家の魅力を感じているらしい。

平野氏は当日の水際立った司会振りからもわかるように、頭も要領もいい。しゃべりがうまく、声も魅惑的で、ルックスにもタレント性があり、おまけに京大法学部卒の高学歴で、メディア受けする条件の結晶体のようだ。小説が書けなくなっても、テレビコメンテーターの文化人枠で十分食っていけるだろう。

一方、田中氏は小説家で食えなくなったら、表舞台からきれいさっぱりいなくなるだろうと思う。どちらが良いというわけではないが、こういう点でもこの二人は極端に、対象的な立場に立っているのだと思う。