議論

多くの人が集まって議論するとき、素晴らしい知恵が出てくるときと、愚論が百出するときがある。これには俎上に上げるテーマの質と、参加するメンバーの質という二つの要因が影響する。

まず、テーマについて言うと、テーマには衆知を集めて議論すべきものと、孤独を確保して深耕すべきものの二種類がある。

デカルトは「方法序説」の中で、都市計画は多くの人を参画させるよりも1人の能力の高い人間の手にゆだねた方がずっと良い出来栄えになる、という意味のことをいっている。「船頭が多いと船が山に登る」という日本のことわざも似たような意味合いだろう。衆知を集めたつもりが、衆愚に陥ることが多々ある。

一方、複雑系の理論だと、雑多な人間が入り混じって触発や啓発しあうエントロピーの高い空間でこそ、高い価値が創発される、ということになる。どちらが正しいのかといえば、どちらも正しい。

ただ、多くの人が議論しても答えが出ない問いは一人(あるいはごく少数)の人間にゆだね、一人(同)で考え込んでも答えが出ない問いは多くの他者の視点を包含させる工夫が有効なことは、確かなように思う。

一般論でいえば、社会的、政治的な問題は、議論を経て多数の人間の中和的結論に至るが目的ではある。ここで重要になるのは、そこに参加する人々の、柔軟な折り合いである。

次にメンバーの質について触れると、たとえば科学的真理においては、ガリレオのつぶやきを引くまでもなく、最先端であればあるほど少数が正しく大多数が間違っているのが通り相場で、ここに至っては、正しい少数派と誤っている大多数がいっしょくたになって議論を戦わせたところで、労多くして益はない。

ただし、すぐれた人の創見や発見は、その他大勢の揚げ足取りにも似た底意地の悪い批評眼でよってたかって研磨されることによって完成度が高まることもままあり、その意味ではさまざまなレベルのメンバーを集めた議論は有益である。

きわめて愚劣なのは、それまでの対話の流れを汲まない位の高い人の鶴の一声で結論づけられたり、たんに責任を平等に分割するための儀式、あるいは利害関係者の顔を立てる狙いで、議論や打ち合わせの場が設けられるような場合である。

ミもフタもない言い方をしてしまえば、問題や課題というものは、解く能力をもった人間が、解ける環境や条件を得たときに解くものである。解く能力がない人間が百人集まって口角泡を飛ばしたところで、解く能力のある一人の沈思黙考には及ばない。