岳 〜みんなの山

 自己の体験に深く根ざした畢生の名作をひとつ書き、そして消えていく作家というものがある。

自分の知る範囲では、文学においては「戦艦大和ノ最期」を書いた吉田満、「銀の匙」を書いた中勘助がそれにあたる。

もっとも吉田満はその体験と作品があまりにシリアスだったために却って職業作家として世過ぎするのを潔しとせず、日本銀行で疑似官吏としての一生を終えることを選んだという事情があるが、自己の人生の金字塔とでもいうべきすぐれた作品を一つ残して、表現の世界から去った外貌には違いがない。

マンガの世界でも同じような作家がいる。自分はよいマンガ読みではないが、その狭い鑑賞世界でもそういう作家を二人知っている。ひとりは「宮本から君へ」を描いた新井英樹、もう一人は「岳」を描いた石塚真一である。

もっとも新井英樹は「宮本」が終わってからも数作の連載作品があるが、立ち読み程度の読書で眺めた範囲ながら、「宮本」に比肩する、あるいは超える作品だとは到底思われない。手前勝手な批評になるが、新井英樹という作家は、実質的には、「宮本」を渾身の力を込めて描きそして力尽きて消えていった作家だと思う。

一方、「岳」の作者である石塚真一にしても、昨年末に連載を終えたばかりで、以後ふたたび名作を描かない保証などないのであるが、自分にはそれが可能だとは到底思えない。

これは作者の能力を軽んじて言っているのではなく、あまりに作者自身の人生を深く掘削し、地底から汲み上げたような純度の高い作品を創りあげると、同じ純度で違う作品が二度と作れなくなるという宿命が、文芸やマンガや映像などの創造活動にはあるように自分には思えるからだ。

だから、作家というものは、その作家生命を生き長がらえさせたければ、少なくとも処女作では自分の体験に深く根ざした作品を描いて公にさらしてはならないのだ、といえるかもしれない。しかし、作家として世に立つとは究極の自己表現であり、自分の体験に深く根ざした渾身の作品を世に問うた結果、その以後、描くことがなくなっても、それは本望であるといえるかもしれない。

前置きばかり長くなったが、この「岳」はそれほどまでに素晴らしい作品だということが言いたかっただけである。何回読んでも同じように感動する宝石のような話がたくさんある。「岳」の作品世界は、登山という特異な空間が舞台ではあるが、そこで繰り広げられるのは普遍的な人間の深いつながりやふれ合いが読む人の心を揺さぶる。

俗に「登山好きに悪人はいない」というが、そんなことはあるまい。富士山やヒマラヤの頂上にも、下界と同じように性悪な人間はウヨウヨいるに違いない。しかし、その割合がおそらく下界より低いであろうと思われる理由は、きわめて先鋭的な身の危険を共有しているがゆえに、少なくともここにある間だけは、人間同士はお互いが危険な存在であるのをやめよう、そしてお互いが助け合って目の前の危険に対峙していこう、という無言のコンセンサスがあるからではないか。

下界においては、人間を危険にさらす敵は、間違いなく人間である。しかし、自然がもたらす身の危険という人間共通の「敵」が目の前に現れたとき、ひとびとはお互いいがみあったり、足を引っぱりあったりする余裕を失い、協力関係を結ぶより他なくなる。

そこで現れる協力関係と、それを支える互助精神は、下界のようなお義理や常識感覚に流されたお座なりなものではなく、切実で、親身で、心情のこもったものになる。「岳」がもたらす深甚な感動は、この心情が読む人に伝わるからだ。

では、なぜ人(といっても限られた人たちだが)は、身の危険を冒してまで登山をするのだろうか。おそらくそれは「そこに山があるから」ではなく、「そこに危険があるから」ではなかろうか。つまり、彼らは「危険を冒してまで登山をしている」のではなく、「危険があるから登山をしている」のだ。

以前はカーレースを主題にした映画がよく作られていたが、最近はめっきり作られなくなった。思うにその理由は、カーレースの安全性が向上したことが大きい。つまり、一歩間違えば大事故の危険性と常に隣り合わせだということがカーレースの大きな魅力になっていたので、その危険性が薄れるということは、魅力そのものが薄れることとイコールになっていたのである。

登山も、一歩間違えば命を失うという危険性と常に隣り合わせであることが、大きな魅力になっている。登山家は、その磁力があるからこそ、いったん登山のとりつかれたら最後、なかなかそこから離れられないのだ。

大きな魅力というだけでは足りない。その危険性が登山の本質であるとさえいるだろう。酒においてはアルコールが主成分であるように、登山がまとっているロマンチックな衣装を剥いでいくと、「危険性」という核心がむきだしになる瞬間がある。

速水御舟作の「炎舞」という日本画がある。炎にひきつけられて近づく昆虫は、いつしか炎に焼き殺される宿命にあるのだが、彼らの本能は近づかずにはおれない欲動に誘われている。危険にひきつけられ、危険の周りをさまよう登山家も同じようなものだ。さすがに人間の知性の働きでそうやすやすと焼き殺されはしないが、つねにその危険性に直面していることには変わりは無かろう。

どんなに周到な準備をしても絶対にゼロにはならない命を失う危険性があるからこそ、登山には魅力があり、可能性がゼロではない限り、遭難事故に直面することは登山家の宿命でもある。カーレースを経て登山に飛び込んだ片山右京氏は、ようするに死に直面するスリルに中毒した人間なのだろう。もしくは、片山氏は、カーレースにおいてはもはや感じなれなくなった死へのスリルを他の分野に求めてさまよっているうちに、登山にたどり着いたということかもしれない。

「岳」の主人公の島崎三歩は、最終的にはエベレストで消息を絶つ。この結末には賛否両論あるだろうが、登山の魅力を描くマンガである以上、その本質に肉薄した結末になることは、ある意味必然であるといえるかもしれない。