お客様は神様か

三波春夫の「お客様は神様です」という言葉の意味は、巷間ひろく理解されているように「観客席のお客様は、神様のように大切な存在です」ということでは実は無い。

かれは、あるテレビ番組で、こんなことを語っている。「僕が『お客様は神様でございます』と言っているのはね、実はもう遥か千年も昔からその精神で芸っていうのはやってきたんですよ。お客様は神様のつもりでやらなければ芸ではなかったんですね。」

つまり、この言葉の意味するところは、「私の真のお客様は、今目の前にいる観客ではなく、神様なのです」ということである。

芸能の起源が神への奉納行為であったことを思うとき、これは実にまっとうな芸能哲学である。三波春夫にとっては、目の前に見える観客という名の俗人の群れは、神どころか、まるで有って無きがごとし存在に過ぎなかったわけだ。(むろん本人は、人気商売である都合から、そこまで露骨には言っていないが)

以前見た台湾の風俗を紹介したテレビ番組の中で、公道の真ん中に設営された芝居小屋があり、その小屋の前にはパイプ椅子が数列並んでいるのだが、観客はほんの二三人しかいない、というシーンを見たことがある。

普通ならば、なんと淋しい客の入りかと演者が哀れになるものだが、舞台の上の俳優たちはそんなことに一向に頓着する様子もなく、熱演を続けている。数少ない観客の一人がテレビスタッフのインタビューに答えていわく、「舞台の上の劇は向側に鎮座している神に向かって演じられているものであって、自分たち人間はほんのついでに覗き見しているにすぎないのだ」という。

つまり、この劇の真の客は「神様」であって、生身の人間はただそれを覗き見している存在にすぎない。まさに「お客様は神様」だったというわけである。そういえば、哲学者の西田幾多郎にも「自分は読者に向かって書くのではなく、神に向かって書く」という意味の言葉があったと記憶している。つまり西田幾多郎にとっては「読者は神様」だったというわけだが、

徹底的に顧客やユーザーの視線や欲望を意識してビジネス設計をするのが「マーケティング」の精髄だとすれば、彼らからすっぽり抜け落ちているのがこのマーケティング思考である。

しかし、神との対話とは、煎じ詰めるところ内なる自分との対話であることを思うとき、神に向かって演劇や歌唱や執筆をささげることは、自分の精神の基底を流れる他者と豊かにつながり合う地下水脈まで心を鎮めて降りることに他ならず、これは、逆説的だが「自分を通じて他者を知る」という至高のマーケティング手法を実践している、ということになる。

悲しむべきは、現代の日本人から「神」というideaが消えかかっているということである。神というideaを喪失するということは、豊かな精神世界を持った過去の人々と精神を交信させる道筋を失うということであり、他者と情緒を豊かに共有しあう地下水脈を失うということでもあるというのに。