人生は穴掘りか

 

 かつて、「徳川埋蔵金」などの地中深く隠された伝説のお宝を探す番組があった。綿密な(?)事前調査によって場所に当たりをつけてのち、ショベルカーやらブルドーザーやらを使って大穴を掘りまくるだけなのだが、結局、お宝は見つからなかった、というのが毎度おなじみの結末だった。

とんだ茶番ではある。かたずを飲んでなりゆきを見守っていた視聴者たちこそいい面の皮だが、掘り進んでいるプロセスで高まる期待感と、後に残った大穴の空虚な偉容には、それなりの見ごたえを感じさせるものがあった。

「掘る」という行為、そして残される巨大な穴には、人びとを有無を言わさず魅了する、得体の知れない力がある。以前湯川秀樹が、哲学者の西田幾多郎を評して、「西田先生は大変偉い先生だけれども、同じ場所ばかりを掘り進めているようだ。」という意味のことを、揶揄をにおわせながら述べているのを読んだことがある。

しかし、こうは言えないだろうか。西田幾多郎の偉大さは、「発見した真理」ではなく、「掘った穴」の偉容にあるのだ、と。

人間誰しも、幸福やら、名声やら、自己実現やら、事実や真理や真実の探求やら、多種多様な「埋蔵金」を求めて、日々、自前の大穴を掘っているわけだが、たとえ結果的にはそれが掘り出せないまま命尽きても、掘り進むプロセスでイヤというほど味わった土の手ごたえの記憶と、掘られた大穴は残り続ける。生きる味わいとは、その記憶を反芻し、その残された大穴をしみじみと眺めること・・なのかもしれない。

かの番組を企画し制作した人々には、そのことがちゃんと判っていたのだろう。もしそうならば、この番組は茶番どころか、人生の真理をするどく突いた、深遠で、哲学的な番組として、立派に成立していたようにも思える。