租・庸・調

 ついひと月ぐらい前は、AIが人間の仕事を全部奪って人間はすることがなくなるのでベーシックインカムがどうたら・・と議論をしていたが、そのベーシックインカムの必要性がこんな形で訪れるとは。

とりあえず、今は、現金の給付が急務であることは間違いないが、この事態が継続し、物を作る人も運ぶ人も売る人もいなくなった場合、貨幣という金属片、紙きれあるいは電子データだけあったところで、人間は、社会はどうにもならないだろう。

貨幣が価値交換の媒介として機能するのは「それに価値がある」という幻想を万人が共有してこそだ。言い方を変えれば、「誰もが欲しがる」魅力を備えてこそ貨幣にはプレゼンスがあるので、その魅力が消滅したとき、社会は原始時代の物物交換に戻らざるを得ない。

そんなふうに社会に逆戻りしたときに、自分は他者や社会に対して、衣食住と交換しうるどういう価値をもっているのかと考えると、まことに心もとない気がする。

貨幣がまだ公定の価値を持っていなかった時代、例えば日本の古代のある時期において、租税は「租(年貢)・庸(労役・兵役)・調(糸・反物)」の三種類だった。これは人間が他者と交換しうる三つの価値を端的に表現したもので、今風に翻訳すれば、租は食料、庸はサービス、調はクリエイティビティに当たる。

この三つは、租は農業、庸はサービス業、調は工業と表現してもいいだろう。煎じ詰めるところ、人間が生み出しうる価値は、この三つしかない。一見分類のしようがないように見える「宗教」でも、ざっくり言えばサービス業に分類できるだろうし、コンテンツ産業という意味では工業にもなるかもしれない。

何が言いたいのかというと、現在の「給付」を求める沸騰する貨幣へのニーズのその先には、貨幣への幻想からすっかり覚めた、いうなればカネに愛想を尽かしたマテリアリズム(唯物論・物質至上主義)の精神地帯が待ち構えているということである。

そこまで行くのか、といえば、このままワクチンも治療薬も開発されず、かといって完璧な感染を避ける(社交上の衛生学上の)手段が発明され全世界で共有でもされない限り、そこまで行くとしか思えない。